応永三年、年貢を量った一つの枡

側板の外面に「應永〈丙子〉八月日」と陰刻されている。応永3年(1396)の八月という年紀である。残る三面には、それぞれ「年預」「行事」「預」の肩書と花押が刻まれ、一面には「大吉」の二字が添えられる。署名したのは高野山の三人の沙汰人。この箱は穀物を量るための枡であり、かつて高野山の根本所領にあって、毎年の秋に百姓が納める年貢の量を決めていた。

高野枡と呼ばれるこの一口は、針葉樹系の材を用いた方形の木枡で、各縁に鉄をめぐらせている。いわゆる金伏枡である。鉄は装飾ではない。材の割れを防ぎ、繰り返し米を盛っては斗掻きで擦り切る日々の使用に耐えて、内法の容量を狂わせないための備えだった。

枡の大きさを握る者は、米の出入りそのものを握る。だからこそ、三人の役人が銘を刻んだ。

枡の背後にある荘園

その荘園は官省符荘という。高野山金剛峯寺の根本寺領であり、高野本荘とも金剛峯寺荘とも呼ばれた。名は本来、太政官符と民部省符を得て不輸租を認められた荘園の類型を指す語だが、ここではそれがそのまま固有の地名となった。荘域は紀ノ川流域に広がり、現在の和歌山県かつらぎ町から橋本市、九度山町にまたがる。山上の高野山は、この荘から収入の多くを得ていた。

応永3年(1396)、高野山は官省符荘の検注を行った。田畠を改めて測り、各地の負担を定め直す作業である。だが検注は、収納に用いる枡が確かでなければ意味をなさない。中世の日本に枡の統一規格はなく、同じ「一升」でも在地ごとに容量が異なった。徴収用と支払用とで枡を使い分け、その差を懐に収めることも珍しくない。高野山領の荘園でも、返抄枡と下行枡の容量差を利用した操作が古文書に記録されている。

検注に際して一つの公定収納枡を定め、責任者が年紀と花押を刻んで保証する。これは、荘園を立て直すうえで欠かせない手続きだった。

重要文化財に指定された理由

高野枡が重要文化財に指定されたのは昭和56年(1981)6月9日、種別は美術工芸品ではなく歴史資料である。価値の核心は資料性にある。古い枡そのものは各地に残るが、製作年が確かなものは少なく、誰が何のために作ったかまで伝える例はさらに乏しい。

本枡は年紀を材に刻み、製作を保証した沙汰人の銘をもち、応永3年の検注という成立の背景まで明らかにする。これにより、製作年が判明する現存最古の判枡遺品と認められている。中世の量制をたどる者にとって、荘園がいかに年貢の基準を定め、それを実効あるものとしたかを物的に示す、数少ない証拠である。

見どころ

四面の刻銘

年紀の面には「應永〈丙子〉八月日」と刻まれる。丙子の干支は応永3年に合致し、年代の読みを裏づける。他の三面は荘務を担った高野山の沙汰人の肩書を示す。すなわち年預、行事、預で、それぞれに花押が添えられている。一面の「大吉」の二字は、枡とその働きに寄せた吉祥の銘であろう。

鉄と針葉樹の材

この枡は展示のためではなく、過酷な日常の使用のために作られた。針葉樹の材は軽く加工しやすく、縁を巻く鉄帯は斗掻きによる磨耗を受け止める。使い込まれた枡を見ると、その造りの理由が腑に落ちる。米が触れる縁が一分でも狂えば計量が狂い、計量が狂えば争いを生む。だから縁は鉄で守られた。

附の大枡

指定にはもう一口、大枡が附として加えられている。中世の荘園では用途に応じて容量の異なる枡を備えるのが常であり、容量を異にする一組が揃って伝わったことは、高野山領で穀物が実際にどう量られたかを考えるうえで貴重な手がかりとなる。

枡を見ること、そして荘園の地に立つこと

はじめに率直に記しておく。高野枡はかつらぎ町役場に保管されており、常時公開はされていない。現物を見たい場合は、事前に町へ問い合わせ、閲覧や特別展示の可否を確かめるのがよい。寺宝として常に拝観に供される類の品ではなく、あくまで実用の徴税具である。

一方で、枡を生んだ土地は今も開かれている。本枡はかつらぎ町の宝蔵寺から見いだされたもので、高野山の麓に広がる谷には、棚田や川沿いの平地、山上へと登る森の斜面と、かつての荘園の地形が今も残る。実りの秋、十月の田に立てば、この枡が量ろうとした当のものが目の前に広がっている。

かつらぎ町の周辺

上天野の里に鎮座する丹生都比売神社は、この地域最大の見どころであり、「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として世界遺産に登録されている。社伝によれば、その祭神が空海に高野山開創の地を授けたという。楼門と本殿はいずれも重要文化財である。境内は終日開かれ拝観は無料、鉄道ではJR和歌山線の笠田駅が最寄りで、町のコミュニティバスで天野まで約30分を要する。

隣接する九度山町からは、官省符荘の政所であった慈尊院のかたわらを通って、町石道が高野山へと登っていく。その一部を歩くだけでも、年貢を産した里と、それを受けた山という物語の両端がつながる。参詣道の終点には、金剛峯寺の宿坊街と広大な奥之院をもつ高野山が控えている。

Q&A

Qそもそも枡とは何ですか。
A主に米などの穀物の体積を量るための、定量の木箱です。後世には酒器にも転じましたが、本来の用途は計量で、枡に盛って斗掻きで擦り切った量が一単位となります。この高野枡は、公的な権威を帯びた収納用の枡でした。
Qなぜ1396年と分かるのですか。
A側面に「應永〈丙子〉八月日」と年紀が直接刻まれているためです。丙子の干支は応永3年に対応し、沙汰人の刻銘や同年の検注の記録とも整合します。だからこそ製作年が確実なものとして扱われています。
Q一見地味な枡が、なぜ国の文化財なのですか。
A資料としての価値が高いからです。枡の規格が全国で統一されるのは後世のことで、特定の荘園と検注に結びつく、年代の確かな公定枡は中世の徴税の実態を伝える稀少な物証です。指定区分も歴史資料となっています。
Q現物を見ることはできますか。
A常時の公開はありません。かつらぎ町役場で保管されており、閲覧の可否は町への問い合わせや特別展示の機会によります。多くの場合は、周辺の荘園の景観や近隣の世界遺産を通じて、その背景に触れることになります。
Q高野山とはどう関わるのですか。
A本枡は、高野山金剛峯寺の根本所領である官省符荘の収納枡でした。量られた米は山上の寺の収入であり、銘を刻んだ役人も高野山に属します。大寺院が、自らを支える土地をいかに治めたかを示す具体的な痕跡です。

基本情報

名称高野枡〈応永三年八月 日/高野山沙汰人連署刻銘〉
指定区分重要文化財(歴史資料)
指定年月日昭和56年(1981)6月9日
時代・年代室町時代・応永3年(1396)
員数1口(附 大枡 1口)
所有者柏木区
保管施設かつらぎ町役場
所在地和歌山県伊都郡かつらぎ町大字丁ノ町2160
公開状況常時公開なし(事前に町へ要確認)

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/10155
官省符荘(紀伊国)/コトバンク
https://kotobank.jp/word/官省符荘-48946
丹生都比売神社 公式サイト
https://niutsuhime.or.jp/
かつらぎ観光協会
https://www.katsuragi-kanko.jp/

最終更新日: 2026.05.29