明神川逆水樋門 ― 大正5年の人造石が今も支える逆流防止の石造アーチ

愛知県大府市の東端、尾張と三河の境をなして流れる境川の右岸に、明神川が堤防を横切る地点がある。その堤を貫いて水を通すために築かれたのが、明神川逆水樋門である。竣工は大正5年(1916年)。員数は1基。種別は治山治水の土木構造物として登録されている。

樋門とは、堤防のなかに水路を通し、堤の内側の水を本流へ流すための構造物をいう。本流が増水したとき、その水が逆に堤内へ押し戻されないよう、流れを制御する役割を担う。境川が出水すれば、合流する明神川をさかのぼって水田や集落側へ水が逆流しかねない。それを防ぐために設けられた施設であり、「逆水」の名はこの逆流防止の機能を直接に示している。明神川は、この樋門を抜けるとほどなく境川に注ぐ。

規模そのものは大きくない。通水部は延長10メートルの石造単アーチで、二枚厚に石を積む。注目すべきはその上部壁体と両脇の護岸で、ここに人造石が用いられている。コンクリートが普及する以前の土木材料であり、この樋門の価値の中心にあるものである。築造から100年を越えた現在も、樋門として水を通し続けている。

「指定」ではなく「登録」 ― 制度の違い

明神川逆水樋門は、令和3年(2021年)2月4日の官報告示により、国の登録有形文化財(建造物)となった。登録番号は23-0561。国宝や重要文化財といった呼称に親しんだ目には聞き慣れないかもしれないが、これらは別の制度に属する。

文化財の保護には二つの枠組みがある。古くからある「指定」の制度は、とくに価値の高い建造物や物件を選び、強い法的保護のもとに置く。これに対して「登録」の制度は平成8年(1996年)に始まった、より緩やかな仕組みである。おもに明治期から昭和前期にかけて造られた、近代化を支えた建造物群を対象とし、所有者が活用を続けながら保存することを促す点に特色がある。現役の土木施設として機能しているこの樋門は、その趣旨にかなった事例といえる。

登録の基準として記録されているのは「再現することが容易でないもの」という一項である。これは、いったん途絶えた施工技術を、現代の工法では簡単に造り直せないという事情を指している。

人造石と、その技術を生んだ人物

壁体に使われている材料は人造石と呼ばれる。これを大成したのが、同じ三河の碧南に左官職人の子として生まれた服部長七(1840〜1919年)である。長七は、消石灰と真砂土を練り混ぜて突き固める伝統的な「たたき」の技を改良し、港湾や堤防にも耐える水に強い建設材料へと作り変えた。「長七たたき」とも呼ばれるこの工法は水中でも硬化し、輸入セメント、ついで国産セメントが普及するまでの時代に、四日市港の潮吹き防波堤や広島の宇品築港、各地の干拓堤防など、当時としては大規模な土木工事に採用された。

ただし、この樋門と長七との関わりには注意が必要である。長七が事業から退いたのは明治37年(1904年)で、樋門の竣工はその12年後にあたる。文化庁のデータベースは、本樋門について、長七の人造石を参考に愛知県が行った材料試験を基に施工されたと考えられる、と記す。長七自身の手になるものとは記していない。すなわち、発案者が現役を退いたのち、その技術が県の土木へと受け継がれて生まれた構造物だと位置づけられる。

この点で対をなすのが、すぐ近くに立つ明神樋門である。明治34年(1901年)の竣工で、こちらは服部長七の関与が明らかな遺構とされる。二つの樋門は令和3年に同じ日付で揃って登録された。並べて見れば、一人の職人が編み出した工法が地域の標準的な技術へ広がっていった経過をたどることができる。

見どころ

現地でまず押さえておきたいのは、ここで二つの水路が高さを違えて交差していることである。明神川が上を、江戸時代に近隣の村々が田の排水のために掘った五箇村川が下を通る。明治34年の明神樋門は下側で五箇村川の通水を受け持ち、大正5年の逆水樋門は明神川が境川の堤と交わる地点を担う。両者を併せて見ると、大きな本流を入れずに耕地の水を抜くために、流れを上下に重ねて処理した工夫が読み取れる。

樋門をよく見れば、かつて扉が設けられていた痕跡が残る。境川が増水したときに逆流を実際に食い止めていた、いまは失われた戸の跡である。その境川は、長く尾張国と三河国を分かつ境界線をなしてきた川であり、樋門が貫く堤防は、何世紀にもわたって意味を持ってきた線の上にある。

整えられた観光地ではなく、近代の土木遺構である。周囲は現役の河川敷で、暖かい季節には草に覆われて見えにくくなることもある。風景がどう造られてきたか、その骨格に関心を寄せる人にとって、見るべきものの多い場所である。

周辺の楽しみとアクセス

大府市はJR東海道本線で名古屋と刈谷のあいだに位置し、名古屋市街から半日で訪ねられる。共和駅へは名古屋駅から快速でおよそ13分。隣の大府駅は武豊線を分け、知多半島方面への乗り換え駅にもなっている。樋門群は、いずれの駅からも市の東寄り、境川沿いの横根町の方角にある。

二つの明神樋門の登録により、大府市の国登録有形文化財は4件となった。近代日本の土木技術に関心があれば、視野を広げて周辺を巡るのもよい。この一帯で先鞭をつけられた人造石の工法は、四日市の旧防波堤や明治用水の旧頭首工をはじめ、愛知県内外の各所に遺構を残している。

Q&A

Q「逆水樋門」とは何ですか。なぜここに必要だったのですか。
A堤防に組み込んで小さな川を通しつつ、隣を流れる大きな川が逆流してくるのを止める樋門です。大雨で境川が増水すると、その水が明神川をさかのぼって堤の内側の田畑や集落へ押し寄せかねません。それを防ぐために、逆流に対して閉じる構造が設けられました。
Qこの樋門は服部長七が自ら造ったのですか。
A公式の記録では、直接の関与は確認されていません。長七は明治37年(1904年)に引退しており、大正5年のこの樋門は、彼の人造石を参考にした材料試験を基に愛知県が施工したと考えられています。長七の関与が明らかなのは、隣接する明治34年の明神樋門のほうです。
Q登録有形文化財は国宝とどう違うのですか。
A別の制度に基づきます。国宝や重要文化財は、古くからの厳格な枠組みのもとで「指定」されます。「登録」は平成8年(1996年)に始まった緩やかな仕組みで、近代の建造物を活用しながら保存することを目的としています。この樋門は指定ではなく登録の文化財です。
Qいまも使われているのですか。
Aはい。竣工から100年を越えた現在も、樋門として機能しています。造られた役目を果たし続けていることが、登録された理由の一つでもあります。
Qもう一つの明神樋門と一緒に見られますか。
A見られます。明神樋門(明治34年)と明神川逆水樋門(大正5年)は横根町の同じ地点にあり、令和3年に同じ日付で登録されました。ここでは一方の水路が他方の上を越えているため、両方を見ると構造の理解がより深まります。

基本情報

名称明神川逆水樋門(みょうじんがわぎゃくすいひもん)
所在地愛知県大府市横根町惣作263地先
指定区分登録有形文化財(建造物・土木構造物)
登録年月日令和3年(2021年)2月4日(登録番号 23-0561)
登録基準再現することが容易でないもの
年代大正5年(1916年)
構造及び形式等石造アーチ式樋門、通水部延長約10メートル。二枚厚の石造単アーチに、人造石の上部壁体および護岸を備える
員数1基
所有者愛知県
アクセスJR東海道本線・共和駅から境川沿いの横根町方面。名古屋駅から共和駅まで快速で約13分
公開状況河川敷の屋外土木構造物。外観の見学は可能。夏季は草に覆われる場合あり

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁)― 明神川逆水樋門
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00013558
文化遺産オンライン(人間文化研究機構)― 明神川逆水樋門
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/550545
文化遺産オンライン(人間文化研究機構)― 明神樋門
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/516814
大府市 ― 明神樋門・明神川逆水樋門が国の登録有形文化財に登録されました
https://www.city.obu.aichi.jp/bunka/kanko_rekishi/rekishi/1016913.html
大府市 ― 大府の文化財
https://www.city.obu.aichi.jp/shisei/information/1010326/1010355/1002334.html

最終更新日: 2026.06.18