名古屋城二之丸庭園——尾張徳川家の藩主庭園を読み解く
名古屋城天守の北東、面積3万463平方メートルの傾斜地に広がるのが名古屋城二之丸庭園である。元和元年(1615)、初代尾張藩主・徳川義直が二之丸御殿に入った年に、御殿の北側で作庭が始められたとされる。御殿そのものは明治の陸軍接収によって取り払われたが、青石を主体とする豪壮な石組、玉澗流の枯滝、入り組んだ築山の輪郭は今日も地表に残されている。
藩主の居館に附属する庭園として、これだけの規模で現存する例は全国的に他に類を見ない。
元和の作庭——義直と上田宗箇
名古屋城の築城は慶長15年(1610)、徳川家康が九男・義直の居城として工事を始めたことに発する。加藤清正、福島正則、池田輝政、黒田長政ら西国20名超の大名が普請助役として動員され、いわゆる天下普請の城となった。元和元年、二之丸御殿が成ると同時に、その北側に庭園が築かれている。
作庭は武将茶人・上田宗箇(1563〜1650)の手によると伝わる。宗箇は千利休に師事した茶人であり、当時は紀伊和歌山の浅野家に仕えていた。築城に関わった浅野家の縁、和歌山城西の丸庭園との作風の類似、紀州産の青石を多用する点などが、宗箇作の根拠とされる。ただし作事奉行には小堀遠州も名を連ねており、最終的に誰の意匠であったかには確定的な史料がない。
当初の庭園は、尾張藩領であった木曽の景勝地・寝覚の床を模したとも伝わる。築城で余った石材を用い、険しい谷と高い築山を造り上げたといわれ、深く茂る森と地形は本丸北側の防御線も兼ねていたと推測されている。
文政の大改修と「御城御庭絵図」
庭園は江戸時代を通じて何度も改変されている。享保年間(1716〜1736)以降に枯山水回遊式へと改められ、文政年間(1818〜1830)には十代藩主・徳川斉朝の手によって最大の改修が行われた。現在の二之丸東庭園にあたる区域まで地割が拡張され、六つの茶席、園池、それらをつなぐ暗渠水路が整備されている。
この最盛期の姿を写し取ったのが、名古屋市蓬左文庫所蔵の「御城御庭絵図」である。1970年代以降に進められた発掘調査では、絵図に描かれた池の縁、橋台、茶席の礎石、飛石の配置が地中からほぼ図面通りに出土し、絵図の精度の高さが裏付けられた。以後の修復事業はこの絵図を主たる典拠としている。
近代の喪失と二度の名勝指定
明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管となり、二之丸の東側には兵舎と練兵場が建設された。広大な池は埋め立てられ、中央の築山・権現山も南側を大きく削られている。北御庭のみが旧態をとどめ、その南側には旧庭園の石材を転用した前庭が新たに作庭された。
昭和28年(1953)3月31日、北御庭と前庭が国の名勝に指定された。愛知県下の庭園としては初の名勝指定であった。その後の発掘調査によって、文政期の庭園遺構が地下に良好な状態で残されていることが判明し、平成30年(2018)2月13日には東庭園を含む庭園のほぼ全域が追加指定されている。指定面積は3万463.35平方メートルにおよぶ。
玉澗流の枯滝と青石の石組
二之丸庭園には、大名庭園の常套である大池がない。代わりに、視線は石へと吸い寄せられる。
北御庭の中核をなすのが玉澗流の枯滝石組である。玉澗とは南宋末の水墨画家であり、その山水画の構図を地に写したのがこの様式とされる。背後に大きな築山を立て、主石の間に滝の落差を見立て、その上に石橋を架ける。国内の遺構例は決して多くなく、和歌山の粉河寺庭園、山口・周南の漢陽寺などが知られる。名古屋の枯滝は、紀州産と推定される大ぶりの青石を組み合わせ、文化庁の解説でも「豪宕多彩」と評された。少し西に、もうひとつ小ぶりの枯滝石組が控えているが、足を止めなければ通り過ぎてしまう。
築山に登る延段、消えた茶屋の礎石、青石の配置がつくる目線の上下——歩きながら一つひとつを追っていくと、藩主が園内を巡って茶席に向かう所作までも視界に浮かんでくる。平成25年(2013)から続く保存修復工事により、崩落していた石組の据え直しと、視界を遮っていた樹木の整理が進められている。日によっては立ち入りが制限される区画もある。
訪れるには
二之丸庭園は名古屋城の有料区域の一部であり、地下鉄名城線「名古屋城駅」から徒歩約7分、または「市役所駅」から徒歩5分で正門に着く。観覧料は大人500円、中学生以下は無料。本丸御殿、隅櫓などを含む城内全域がこの一枚で観覧できる。天守閣は木造復元を控えて現在閉館中のため、見学の中心は復元なった本丸御殿、隅櫓群、そしてこの二之丸庭園となる。
開園9時直後の時間帯は比較的人が少ない。本丸への動線から外れた位置にあるため、二之丸庭園まで足を伸ばす観光客は意外と少なく、ゆっくりと石組と対峙できる。11月下旬から12月初旬には二之丸茶亭周辺のモミジが色づき、4月初旬には外堀沿いに桜が並ぶ。
周辺の見どころ
城内では、10年がかりで復元され平成30年(2018)に全面公開された本丸御殿が、襖絵と障壁画の輝きで江戸期の藩主の対面空間を再現している。西の丸御蔵城宝館では、戦災から救い出された重要文化財の障壁画原本を間近に観られる。城外では、徳川美術館と隣接する徳川園——明治期に造られた池泉回遊式庭園——が尾張徳川家伝来の品々を所蔵しており、城からはバスで20分ほどで足を運べる。
Q&A
- 城の開園時間内ならいつでも入れますか。
- 名古屋城の開園時間(通常9:00〜16:30)に準じて開放されています。12月29日から1月1日は休園です。保存修復工事の進捗により、一部区画が一時的に立入制限となることがありますので、特定の景観を目当てに訪れる場合は事前に公式サイトをご確認ください。
- なぜ大池がないのですか。
- 作庭当初は池や流れがあったとされますが、江戸中期以降の改修で枯山水化が進み、明治期には東半の池泉が陸軍によって埋め立てられました。現在見られる枯滝石組や白砂・栗石の敷きは、いずれも水のない手法で水景を表す意匠です。
- 作庭者は誰ですか。
- 確証ある一次資料は残されていません。武将茶人・上田宗箇とする伝承が古くから存在し、和歌山城西の丸庭園との作風の近似や青石の使用から有力視されていますが、当時の作事奉行であった小堀遠州の関与を示唆する向きもあります。
- 玉澗流とはどのような様式ですか。
- 南宋末の画家・玉澗の山水画に着想を得た枯滝石組の様式で、主石の背後に築山を構え、滝の見立ての上に石橋を架けるのが特徴です。室町後期から安土桃山期にかけて成立したと考えられており、現存例は全国的にもごく限られます。
- 二之丸東庭園は同じ庭園の一部ですか。
- はい。元来は文政期の大改修で取り込まれた東半部にあたります。明治期に陸軍によって埋め立てられましたが、昭和53年(1978)に「御城御庭絵図」と発掘成果に基づいて部分復元され、現在は二之丸東庭園として一般公開されています。
基本情報
| 名称 | 名古屋城二之丸庭園(なごやじょうにのまるていえん) |
|---|---|
| 指定区分 | 名勝(国指定) |
| 指定年月日 | 昭和28年(1953)3月31日/追加指定 平成30年(2018)2月13日 |
| 面積 | 30,463.35 m² |
| 所在地 | 愛知県名古屋市中区二の丸 |
| 管理団体 | 名古屋市(昭和40年10月28日指定) |
| 作庭起源 | 元和元年(1615)/初代尾張藩主・徳川義直による |
| アクセス | 地下鉄名城線「名古屋城駅」から徒歩約7分/「市役所駅」から徒歩約5分 |
| 観覧料 | 大人500円(中学生以下無料)/名古屋城観覧料に含まれる |
| 開園時間 | 9:00〜16:30/休園日は12月29日〜1月1日 |
参考文献
- 名古屋城二之丸庭園 — 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1447
- 名古屋城二之丸庭園 — 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190962
- 名勝二之丸庭園 — 名古屋城公式ウェブサイト(観覧ガイド)
- https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/guide/teien/
- 名勝二之丸庭園 — 名古屋城公式ウェブサイト(保存整備)
- https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/save/teien/
- 名古屋城二之丸庭園 名勝指定追加について — 愛知県
- https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/252337.pdf
最終更新日: 2026.05.18