城が焼けても残った二つの門

名古屋城の本丸、その東側の入口に立つと、頭上に重い木造の門がかかっている。背後にそびえる天守は昭和三十四年(一九五九)の再建、その奥の本丸御殿も平成三十年(二〇一八)に復元されたものだ。ところがこの門だけは違う。慶長十七年(一六一二)頃、徳川家康が九男義直のために城を築いていた、その時期の建築である。これが旧二之丸東二之門だ。

同じ城内に、もう一つ兄弟のような門がある。二之丸の西側に四百年立ち続けてきた二之丸大手二之門である。両門はふつう一組として語られる。同じ普請で、同じ形式で建てられ、そして二十世紀の戦火を逃れた数少ない創建期の遺構だからだ。

名古屋城は国家規模の事業だった。慶長十五年(一六一〇)から同十八年にかけて、家康は西国の大名を動員する天下普請を命じ、東海道と京への道筋を押さえる巨城を築かせた。天守台の巨大な石垣は、築城の名手として知られる加藤清正に割り当てられている。完成した城は徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の居城となり、明治維新まで十七代にわたって受け継がれた。

その広大な城郭のうち、昭和二十年(一九四五)五月十四日の空襲をくぐり抜けたのはわずかだった。大天守、小天守、本丸御殿の大半が焼け落ち、木造の建造物で焼失を免れたのは六棟のみ。三基の隅櫓と本丸表二之門で四棟、残る二棟がここで取り上げる門である。

高麗門という形、その意味

両門はいずれも高麗門の形式で建てられ、屋根は本瓦葺、すなわち平瓦と丸瓦を組み合わせた格式の高い葺き方をとる。この高麗門という形は少し立ち止まって見る値打ちがある。装飾ではなく軍事的な工夫の産物だからだ。

古い形式の薬医門は一枚の大きな屋根が門全体を覆うが、その屋根が城壁上からの視界を遮ってしまう。高麗門はこの難点を解いた。本体の切妻屋根は二本の主柱の上だけにかかり、その背後に立つ二本の控柱には、それぞれ小さな独立した屋根が乗る。こうすると門は頑丈さと雨仕舞いを保ちながら、城壁に詰めた守備兵が、門口で足を止めた敵を上から狙える視界と射線を確保できる。背後の二つの小屋根に気づけば、高麗門はどこででも見分けられるようになる。

それぞれの門は枡形の外側の半分を構成していた。枡形とは、外門と内門を直角に配した四角い囲いで、最初の門を破った敵は九十度向きを変えねばならず、その間、三方から射撃を浴びる。大手二之門は、現存しない内門の大手一之門と対になり、古くは西鉄門と呼ばれて二之丸の正門を形づくっていた。

旧二之丸東二之門は、もともと城内の別の場所にあった。二之丸東の枡形外門である東鉄門の、その一の門だったのである。昭和三十八年(一九六三)、二之丸に愛知県体育館を建設するため解体され、昭和四十七年(一九七二)、焼失した本丸東二之門の跡地に移築されて現在に至る。名称の「旧」はこの移動の記録だ。とはいえ用材は創建時のもので、平成二十二年から二十四年(二〇一〇〜二〇一二)にかけて改めて解体修理が施されている。

両門が重要文化財に指定されたのは昭和五十年(一九七五)六月二十三日のことだ。指定の年が示すものは小さくない。三基の隅櫓と本丸表二之門は、戦前の旧国宝保存法のもとで昭和五年(一九三〇)に当時の国宝に指定され、昭和二十五年(一九五〇)に重要文化財へ移行している。ここで扱う二門が同じ保護を得るには、さらに四半世紀を要した。訪れる人がそうと気づかぬまま通り過ぎてしまう理由の一つも、そこにある。

訪ねて、門を読む

この二門の面白さは、近づいて細部を見ることにある。大手二之門に歩み寄り、接合部を観察してほしい。扉と柱に打ち付けられた帯状の鉄、漆喰で塗り込めた軒回りの仕上げ、背後の小屋根のわずかに異なる勾配。これらは軍勢を食い止めるための木工であり、徳川が旗艦の城に求めた精度で仕上げられている。そのうえで本丸入口の東二之門と見比べると、両門が同じ型から切り出されたことがよくわかる。一時間ほどのうちに二つを見て回れば、その血縁は明らかだ。

計画上の注意を一つ。二〇二六年初頭の時点で、再建天守は木造復元の長期計画が進むため閉館している。外観の撮影はできるが、内部には入れない。城内、櫓、門、名高い石垣、庭園は引き続き開放されており、平成三十年(二〇一八)に忠実に復元された本丸御殿は、多くの来訪者の主目的になっている。門は有料区域内の屋外建造物なので、城が開いている時間ならいつでも見ることができる。

東門入口近くの二之丸庭園では、梅や季節の花が散策路を彩る。ここでしばし時間をとり、現代都市のざわめきから、古い防御の静かな幾何学のなかへと足を運んでみたい。天守を目指して急ぎ足で前を通り過ぎてしまう人が見落とすものに、この門はじっくりと応えてくれる。

Q&A

Qこの門は創建当時のもの、それとも天守のような戦後の再建ですか。
A江戸時代初期の現存建築です。両門とも慶長十七年(一六一二)頃に建てられ、天守と御殿の大半を焼いた昭和二十年(一九四五)の空襲を免れました。東二之門は昭和四十七年(一九七二)に城内で移築されましたが、用材は十七世紀の本物で、昭和三十四年に鉄筋コンクリートで再建された天守とは性格が異なります。
Q二つの門の違いは何ですか。
A大手二之門は二之丸の本来の位置に立ち、西側の枡形の外門を構成していました。旧二之丸東二之門は昭和四十七年(一九七二)に本丸東二之門の跡地へ移築されたものです。両門とも高麗門形式で、昭和五十年(一九七五)に重要文化財に指定されました。
Q門の内部に入れますか。
A入れません。通り抜けたり城内から眺めたりする構造物としての門であり、内部空間をもつ建物ではありません。接合部や鉄具といった近接の細部を見ることが、見学の眼目になります。
Q天守閣には入れますか。
A二〇二六年初頭の時点で、木造復元の計画が進むため天守閣は閉館しています。城内、門、櫓、庭園、復元された本丸御殿は公開中です。状況は変わる場合があるため、訪問前に公式サイトでご確認ください。
Q名古屋城へのアクセスは。
A地下鉄名城線の名古屋城駅から徒歩約五分、名古屋駅からは地下鉄で十二分ほどです。観覧料は大人五百円、中学生以下は無料です。

基本情報

名称名古屋城旧二之丸東二之門/名古屋城二之丸大手二之門
所在地愛知県名古屋市中区 本丸・二之丸
指定区分重要文化財(昭和五十年〔一九七五〕六月二十三日指定)
構造・形式高麗門、本瓦葺。慶長十七年(一六一二)頃の建立
所有国(財務省)
開園時間午前九時〜午後四時三十分(本丸御殿入場は午後四時まで)。十二月二十九日〜一月一日休園
観覧料大人五百円、中学生以下無料
アクセス地下鉄名城線・名古屋城駅から徒歩約五分
備考天守閣は二〇二六年初頭時点で閉館中。城内・本丸御殿は公開中

参考文献

国指定文化財等データベース(文化庁) 名古屋城旧二之丸東二之門
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1189
国指定文化財等データベース(文化庁) 名古屋城二之丸大手二之門
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1188
文化遺産オンライン 名古屋城旧二之丸東二之門
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/200119
名古屋城公式ウェブサイト
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/

最終更新日: 2026.06.24

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