小さな建物に秘められた大きな物語 ― 神戸「ロイ・スミス館車庫」を訪ねて
六甲山の南麓、神戸市灘区篠原北町の閑静な住宅地に、スパニッシュ様式の美しい洋館が静かに佇んでいます。「ロイ・スミス館」と呼ばれるこの敷地の東北隅に、ひっそりと建つのが今回ご紹介する車庫です。建築面積わずか26㎡ほどの小さな建物ですが、昭和初期の邸宅文化を今に伝える貴重な遺構として、平成23年に国の登録有形文化財に登録されました。旧大谷家住宅の自動車車庫として造られ、のちにアメリカ人教授ロイ・スミス氏の住まいとなった洋館に寄り添うこの車庫は、戦前の神戸の豊かな国際性と、教え子たちが師に捧げた篤い情を今に伝える静かな証人でもあります。
ロイ・スミス館車庫とは
ロイ・スミス館車庫は、ロイ・スミス館の敷地を構成する建築群のひとつとして、本館・門柱及び石垣とともに一体で国の登録有形文化財に登録されている建造物です。昭和10年頃、貿易商であった大谷茂氏の邸宅「大谷家住宅」の付属車庫として建てられました。同敷地内の本館や門柱・石垣と同じく、全体を一つの屋敷構えとして設計されており、素材や色彩を主屋と揃えて、邸宅全体の整った景観をつくり出している点に特徴があります。現在は公益財団法人神戸大学六甲台後援会が所有し、敷地の一角に当時の姿をとどめて保存されています。
歴史的な背景
戦前の神戸は国際港として独自の繁栄を誇り、市街地背後の山麓、とりわけ篠原・住吉・御影といった一帯は、豪商や外国人居留者の邸宅が数多く建ち並ぶ住宅地として知られていました。大谷家もまたその一角に屋敷を構えた貿易商で、昭和10年頃に阪神間で当時流行していたスパニッシュ様式を基調とした洋館を新築します。設計を担当したのは、御影公会堂や甲南漬資料館なども手がけた神戸ゆかりの建築家・清水栄二。車庫も含めた建築群の意匠や色彩には、清水の一貫した設計思想が細部まで通っています。
戦後、大谷家住宅は個人邸として使われ続けましたが、昭和35年、神戸大学およびその前身校で長年教鞭を執ったロイ・スミス教授の教え子たちが資金を出し合ってこの邸宅を買い取り、恩師への感謝の贈り物として提供しました。このときから建物は「ロイ・スミス館」と呼ばれるようになります。スミス教授は米国イリノイ州出身の教育者で、1903年に来日して東京で英語教育に携わったのち、1909年に再来日して神戸高等商業学校で商業学や外国貿易実務を講義し、その後身校である神戸商業大学、神戸経済大学、そして戦後の新制神戸大学と、校名を変えながらも通算で約60年にわたり日本の若者を育てました。スミス教授は昭和43年に退職・帰国するまでこの邸宅に住まい、その後は神戸大学の外国人研究者の宿舎などとして利用され、現在は神戸大学六甲台後援会の事務所として使われています。
文化財に指定された理由
平成8年に創設された登録有形文化財制度は、都市開発や生活様式の変化のなかで失われやすい近代建築を、比較的ゆるやかな保護措置のもとで後世に継承していくためのしくみです。ロイ・スミス館車庫は、本館・門柱及び石垣とともに平成23年10月28日付で登録され、阪神間の高級住宅地に典型的な屋敷構えを今に伝える一群として評価されました。
とりわけ車庫については、次の三点が高く評価されています。第一に、昭和初期という自動車の所有そのものがまだ一部の富裕層に限られていた時代に建てられた、専用車庫としては現存例の少ない貴重な建築であること。第二に、仕上げや色彩が主屋と揃えられ、敷地全体の屋敷構えの一部として意識的に設計されていること。第三に、一階を車庫、二階を運転手の控室とする珍しい形式を備え、当時の上流住宅における「雇人込みの暮らし」のありようを具体的に今に伝えている点です。
建築の見どころ
車庫は、敷地の東北隅に南面して建つ木造二階建ての小ぶりな建物で、屋根は切妻造に鉄板を葺いています。外壁はモルタル塗り仕上げで、腰壁部分は洗い出しとし、足元にしっかりとした質感を与えています。この洗い出しの腰壁は、敷地の周囲をぐるりと囲う御影石の石垣とも呼応しており、屋敷全体のまとまりを強く意識した設計です。色調もまた主屋に合わせて抑制されており、単独で見ると控えめながら、屋敷全体のなかでは欠かせない一点として機能しています。
内部は、一階のすべてを車庫の土間にあて、二階には六畳などの部屋を配して、お抱え運転手の控室としていました。下階に動力のための空間、上階に人のための空間という二層構成は、単なる物置ではなく「小さな住まい」としての性格をこの車庫に与えており、敷地内にもう一つのささやかな建築的存在感を生み出しています。昭和21年から40年頃にかけて改修が加えられていますが、外観・間取りとも当初の姿を比較的よく残しており、戦前の私邸における自動車文化のあり方を実感できる貴重な事例です。
見学にあたっての注意
はじめにお断りしておかなければならないのは、ロイ・スミス館の敷地は一般公開されている観光施設ではないという点です。現在も神戸大学六甲台後援会の事務所として日常的に使われているため、内部の見学はできません。近代建築に関心のある方は、門の外の公道から車庫・本館・石垣の様子をうかがうことは可能ですが、敷地内への立ち入りや、関係者を撮影するなどの行為はご遠慮ください。あくまで静かな住宅地の一角で、落ち着いた眼差しで建物を鑑賞していただくのが、この文化財とのよい付き合い方です。
場所は阪急神戸線の六甲駅から北へ、篠原の坂道を登って徒歩約20分。途中に護国神社の西側を通る坂道を抜けると、石垣に囲まれた端正な屋敷構えが目に入ってきます。やや起伏のある道のりですので、歩きやすい靴でお出かけください。夏場は飲み物を持参するのがおすすめです。近代建築が多く残る灘区・東灘区一帯をゆっくり歩く散策コースの一区間として組み込むと、時間を有意義にお過ごしいただけます。
周辺の見どころ
ロイ・スミス館の周辺には、歩いてめぐれる魅力的なスポットが点在しています。坂を少し登れば、神戸大学の六甲台キャンパスが広がり、同じく登録有形文化財に登録されている壮麗な神戸大学本館をはじめとする戦前期の学舎建築群を鑑賞できます。さらに山手を目指せば、六甲ケーブルや六甲山上の眺望スポットにもアクセスできますし、逆に坂を下って阪急六甲から王子公園方面へ向かえば、王子動物園や兵庫県立美術館など文化施設も充実しています。また、南へ足を延ばして海岸沿いへ出れば、灘五郷として名高い日本屈指の酒どころが広がり、酒造資料館や利き酒体験など、神戸らしい「建築と食文化」を同時に楽しむ一日の旅程を組み立てることができます。
Q&A
- ロイ・スミス館車庫の内部は見学できますか。
- いいえ、車庫を含むロイ・スミス館の敷地は現在も神戸大学六甲台後援会の事務所として使われており、一般公開は行われていません。外観は公道から眺めることができますが、敷地内への立ち入りや撮影についてはご配慮をお願いいたします。
- なぜ小さな車庫が文化財に登録されているのですか。
- 昭和初期の自動車普及期に建てられた専用車庫として現存例が少ないこと、主屋と色調や素材を揃えて屋敷全体の一部として意匠的に設計されていること、一階を車庫・二階を運転手の控室とする珍しい二層構成を備えていることが、文化財としての評価につながっています。
- ロイ・スミス教授とはどのような人物ですか。
- ロイ・スミス(1878年〜1969年)はアメリカ・イリノイ州出身の教育者で、1903年に来日し、のち神戸高等商業学校とその後身校である神戸大学などで通算約60年にわたり商業学や外国貿易実務を講義しました。昭和35年に教え子たちがこの邸宅を買い取ってスミス教授に贈り、以来「ロイ・スミス館」と呼ばれています。
- 神戸の中心部からの行き方を教えてください。
- 阪急神戸線の六甲駅が最寄り駅で、そこから篠原北町方面へ坂道を徒歩約20分です。途中に勾配のある箇所もありますので、歩きやすい靴でお越しください。
- 大谷家住宅の建物は誰が設計したのですか。
- 車庫を含む旧大谷家住宅一連の建築は、御影公会堂や甲南漬資料館なども手がけた神戸ゆかりの建築家・清水栄二が設計したと伝えられています。屋敷全体を一体のものとして考えた清水の設計思想は、車庫の仕上げや色彩にも細やかに反映されています。
基本情報
| 名称 | ロイ・スミス館車庫(旧大谷家住宅車庫) |
|---|---|
| 所在地 | 兵庫県神戸市灘区篠原北町4-4-13他 |
| 所有者 | 公益財団法人神戸大学六甲台後援会 |
| 設計 | 清水栄二(敷地一連の建築設計) |
| 建築年 | 昭和10年(1935年)頃/昭和21年〜40年頃に改修 |
| 構造 | 木造2階建、切妻造鉄板葺、外壁モルタル仕上げ(腰壁は洗い出し)、建築面積約26㎡ |
| 文化財種別 | 登録有形文化財(建造物) |
| 登録年月日 | 平成23年(2011年)10月28日 |
| 公開の有無 | 非公開(外観のみ、公道からの鑑賞可) |
| 最寄り駅 | 阪急神戸線「六甲」駅より徒歩約20分 |
参考文献
- 文化遺産オンライン「ロイ・スミス館車庫(旧大谷家住宅車庫)」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/198691
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00009051
- 文化遺産オンライン「ロイ・スミス館本館(旧大谷家住宅主屋)」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/246150
- 文化遺産オンライン「ロイ・スミス館門柱及び石垣(旧大谷家住宅門柱及び石垣)」
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/226732
- Wikipedia「ロイ・スミス(教育家)」
- https://ja.wikipedia.org/wiki/ロイ・スミス_(教育家)
- 公益財団法人神戸大学六甲台後援会「ロイ・スミス館」
- https://rokkodaifund.com/roy_smith_house.html
最終更新日: 2026.04.23