真壁城跡 — 筑波山系の麓に残る四重堀の中世平城

茨城県桜川市真壁町、筑波山系から西へ伸びる微高地に、十二・五ヘクタールの広大な城跡が広がる。建物は一棟も残らない。それでも、本丸を中心に同心円状に四重に巡らされた堀と土塁、東方に直線的に展開する中城・瀬戸の郭の屈曲、そして地中に層をなす遺構が、約四百三十年にわたって真壁氏が居館を構えた事実を地形そのもので示している。平成6年(1994)10月28日、国の史跡に指定された。北関東屈指の中世城郭遺構として知られる。

城は桜川沿いの低湿地を眼下に置く台地上に営まれている。南と西の湿地が天然の防御を担い、東は足尾山に至る尾根続き。この立地条件は、戦国期の度重なる増改築を経て、矢羽根のように複雑化した縄張の前提となっている。築城技術書をなぞるような教科書的な造りではない。むしろ、土地の起伏と既存の郭を活かしながら、必要に応じて切り足し、屈曲を増やしていった現場の判断が縄張全体に刻まれている。

真壁氏四百三十年の居城として

真壁氏は、平国香にはじまる坂東平氏のうち、常陸大掾氏の一族である。承安2年(1172)、多気直幹の四男・長幹(たけもと)が真壁郡司として真壁郷に入部し、地名をとって真壁氏を称した。築城の伝承もこの時期に遡るとされるが、文献上で「真壁城」の名が確実に確認できるのは南北朝期に下る。興国2年(1341)12月の史料に、北畠親房に与した「御方城々」の一つとして真壁城の名が見える。

応永30年(1423)には、室町幕府直属の京都扶持衆として鎌倉公方方の豪族と対峙し、8月2日に攻撃を受けて合戦に及んでいる。以後、古河公方・小田氏・佐竹氏など、近隣勢力との従属と離反を繰り返しながら、真壁氏は領主として存続した。戦国期には真壁久幹・氏幹父子の代に佐竹氏の同盟者となり、氏幹は長大な樫木棒を振るう武勇から「鬼真壁」と呼ばれて関東に名を知られた。

転機は天正18年(1590)の後北条氏滅亡である。常陸一国を新たに領した佐竹氏の家臣に組み込まれた真壁氏は、慶長7年(1602)の佐竹氏出羽移封に従い、十九代・約四百三十年にわたる真壁領支配を終えた。城そのものはなお使用が続き、慶長11年(1606)には浅野長政が真壁・筑波両郡内五万石の隠居領を得て本城に入り、寛永元年(1624)には春日局の子・稲葉正勝が一万石で入城する。しかし寛永5年(1628)に正勝が真岡へ転封されると、真壁城は廃城となった。

四重の堀と「折」の縄張が示す築城技術

国史跡に指定された理由は明快で、北関東において四重の堀と土塁がこれだけ良好に残る中世城郭は他に類例が乏しい。本丸は標高約47メートル、南北約100メートル、東西80~100メートル。これを「一の堀」が同心円状に囲み、その外側に二の丸と二の堀がやはり同心円状に巡る。本丸北方の土塁上には稲荷神社が祀られ、城時代から続く守護神として現在も残る。

注目すべきは二の丸の東に続く中城、さらに東の瀬戸の郭である。同心円状の本丸・二の丸とは対照的に、ここの堀は直線的に造られ、各所に「折」と呼ばれる屈曲が設けられている。二の丸から中城、中城から瀬戸への通路はちょうどこの折の位置に設けられており、攻め寄せる敵は必ず横手から射撃される構造になっている。「横矢がかり」と呼ばれるこの設計は、鉄砲伝来後の関東城郭に共通する発想だが、真壁城ではその展開が郭の境界ごとに繰り返され、城全体が一個の射界として組み立てられている。瀬戸の郭には鹿島神社が祀られ、東方の小字「北戸張」は外郭施設の存在を示唆する。

昭和56年(1981)の本丸発掘調査では、本丸を南北に分断する深さ約7メートル・上幅十数メートルの堀が検出された。出土遺物は土師質のかわらけ、土鍋、青磁、白磁、灰釉陶器、鏃、弾丸と幅広く、平安末から戦国・近世初頭までの長期にわたる占地の痕跡を示している。地表に見える縄張は最終段階の姿だが、その下には複数の改修段階の痕跡が層をなして残っている。

遺構をどう歩くか — 現地での見どころ

城跡は無料で開放された史跡公園で、土塁の上に登ることもできる。縄張の構造は地表だけからは把握しにくいが、土塁に上って見渡すと、同心円と直線の二系統の幾何学が同時に視野に入る。本丸跡には現在、真壁第一体育館が建ち、駐車場として整備されている。中枢部の改変は否めないが、二の丸以東の遺構は良好で、桜川市教育委員会による発掘調査と整備が継続的に進められている。一部の土塁・木柵は復元されており、戦国期の防御施設の規模感を体感できる。

城門のうち薬医門が二棟、城が廃された際に近隣に移築されたと地元では伝わる。現在は旧大和地区の楽法寺と旧協和地区の旧家の表門としてそれぞれ残るとされるが、文献的裏付けが乏しいため、伝承として参照するのがよい。建物そのものを見たい場合は、真壁伝承館歴史資料館で発掘出土品と城関連資料を併せて見学するのが近道である。御城印も同館で頒布されている。

城下から城郭まで — 真壁の町と合わせて歩く

真壁城跡の西方、徒歩圏に広がる真壁の町並みは、平成22年(2010)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。城下集落として戦国末から近世初頭にかけて成立した町割をよく残し、見世蔵・板塀・薬医門が連なる通りには、城が廃された後に陣屋町・在郷町として発展した歴史が地割りに刻まれている。城跡で軍事建築を見たあと、町並みでその民間版とも言える薬医門の数々を見比べると、地域全体の歴史的厚みが立体的に理解できる。

真壁氏代々の墓碑群は遍照院に隣接して残り、茨城県指定の史跡となっている。江戸期の荒廃と度重なる火災を経て現在38基が確認されており、真壁氏の系譜を石碑の上で辿ることができる。城跡から南へ車で20分ほど走れば筑波山、西へ向かえば桜川流域の桜並木と、地域名の由来となった景観に行き当たる。

Q&A

Q入場料はかかりますか。開園時間はありますか。
A入場無料、開放型の史跡公園で開園時間の設定はありません。ただし、案内表示や復元土塁は明るい時間帯のほうが見学しやすく、駐車場も日中の利用が前提です。
Q見学に適した季節はいつですか。
A秋から早春にかけてが推奨されます。草が低く抑えられ、堀の屈曲や折の構造が地表からも判読しやすくなります。夏季は植生が繁茂し、細部の遺構が見えにくくなる場合があります。
Qアクセス手段を教えてください。
A最寄りはJR水戸線岩瀬駅で、駅からタクシーで約20分、または桜川市バス「真壁城跡」停留所下車徒歩約5分です。自家用車では北関東自動車道桜川筑西ICから約15分、駐車場は無料です。
Q城内に建物は残っていますか。
A城域内に当時の建造物は残っていません。寛永5年(1628)の廃城時に解体されたとされ、地表に残るのは土塁・堀・土橋などの土木遺構です。近隣に城門を移築したと伝わる薬医門が二棟ありますが、確証は得られていません。
Q城跡と一緒に見ておくべき周辺施設はありますか。
A徒歩圏内の真壁伝統的建造物群保存地区と、出土品を収蔵する真壁伝承館歴史資料館が同日見学に適しています。真壁氏累代墓地及び墓碑群、五所駒瀧神社など、真壁氏ゆかりの史跡も近くに点在しています。

基本情報

名称真壁城跡(まかべじょうあと)
指定区分国指定史跡
指定基準二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
指定年月日平成6年(1994)10月28日 / 県指定(本丸の一部)昭和9年(1934)12月18日
指定面積約12.5ヘクタール
所在地茨城県桜川市真壁町
時代平安時代末(承安2年・1172に伝承上の築城)〜江戸時代初頭(寛永5年・1628廃城)
関連氏族真壁氏(坂東平氏・常陸大掾氏の一族)
アクセスJR水戸線岩瀬駅よりタクシー約20分/北関東自動車道桜川筑西ICより車で約15分/桜川市バス「真壁城跡」下車徒歩5分
料金無料(開放型史跡公園)
駐車場真壁第一体育館(本丸跡)および城北東部駐車場、いずれも無料
関連施設真壁伝承館歴史資料館(御城印頒布あり)
問い合わせ桜川市教育委員会文化財課 電話 0296-58-5111

参考文献

国指定文化財等データベース「真壁城跡」(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/451
国指定史跡 真壁城跡 — 桜川市公式ホームページ
https://www.city.sakuragawa.lg.jp/education/bunkazai/page006692.html
真壁氏の歴史 — 桜川市公式ホームページ
https://www.city.sakuragawa.lg.jp/temporary/page006693.html
真壁城跡 — 茨城県教育委員会
https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-109/
国史跡 真壁城跡 — 桜川市観光協会公式ホームページ
http://www.kankou-sakuragawa.jp/page/page000064.html

最終更新日: 2026.05.19