西山御殿跡(西山荘)— 徳川光圀が桃源郷と呼んだ隠居の庭

関東平野の北端、源氏川の谷津が深く入り込んだその奥に、茅葺き平屋の屋敷が一棟ある。水戸藩二代藩主・徳川光圀が、家督を譲った翌年の元禄四年(一六九一)からこの世を去る元禄十三年までの九年余りを過ごした隠居所、それが西山御殿、いまの西山荘である。

藩主を辞す前年、光圀はこの谷を自分の終の棲家と定め、入口の橋を「桃源橋」と名付けた。陶淵明の「桃花源記」になぞらえた命名で、ここを世俗から離れた理想郷とみなしていたことが、その一語からはっきりと読み取れる。三十五万石を治めた大名の隠居所としては、敷地は山深く、建物は質素にすぎる。だがそれこそが光圀の選択であった。

『大日本史』を編む人

徳川光圀(一六二八〜一七〇〇)は、水戸藩初代藩主・頼房の三男として生まれた。明暦三年(一六五七)、三十歳のときに私的に始めていた漢文体の日本通史編纂事業を、寛文元年(一六六一)に父の死を受けて藩主となってからは藩の事業として本格化させていく。のちに『大日本史』と呼ばれることになるこの紀伝体の歴史書は、完成までに二百五十年近くを要し、明治三十九年にようやく刊本三百九十七巻として刊行される。途中、佐々宗淳をはじめとする学者たちが各地に派遣されて史料を蒐集し、その流れのなかから水戸学が育っていった。幕末の尊王思想にまで連なる学問の源流が、ここから始まったといってよい。

元禄三年(一六九〇)、六十二歳の光圀は隠居を許され、養子の綱條に藩主の座を譲った。翌年、西山に居を移し、自らを「西山隠士」と称する。それから亡くなるまでの九年余り、彼はこの小さな邸でひたすら『大日本史』の校閲を続けた。

隠居といっても、実態は隠居ではない。光圀は西山にあって栃木の那須国造碑(現・国宝)の修補を主導し、侍塚古墳の発掘調査を行わせた。日本の考古学史における最も早い学術調査のひとつである。御殿の周囲の山には鹿を放ち、田には丹頂鶴を放った。敷地内にはカリン、ウメ、クマザサといった薬効のある植物を植えた。

史跡と名勝、二重指定の理由

平成二十八年(二〇一六)三月一日、文化庁は西山御殿跡を国の史跡および名勝に指定した。茨城県内では二件目の二重指定である。史跡として指定された根拠は、光圀が自ら『大日本史』を校閲した記念碑的な場所であるという点。名勝の指定理由は、光圀が理想とした風致景観が今日まで保たれている点にある。前者は学問の遺産、後者は庭園と林相の遺産であり、両方を一体として保護する判断がなされた。

ただし、現在の建物は光圀が暮らした邸そのものではない。光圀の没後、御殿は一度解体されている。十七回忌にあたる享保元年(一七一六)に綱條の命で再建され、「慧日庵」と名付けられて久昌寺の管理下に入った。この建物は文化十四年(一八一七)に類焼し、文政二年(一八一九)に第八代藩主・齊脩が再建する。規模は元禄期の約三分の一に縮小されたが、間取り図と絵図に基づく忠実な再現で、門・池・滝の配置は元禄期そのままを踏襲した。指定の保護対象になっているのも、この光圀時代の意匠が三百年以上にわたって受け継がれてきたという事実である。

敷地を歩く

来訪者は駐車場から「西山の里・桃源」と呼ばれる無料の庭園を抜け、料金所で入場料を払って奥へ進む。坂道の両側には紀州徳川家から贈られたという熊野杉が高くそびえる。やがて正門である突上御門が見えてくる。上に跳ね上げる仕様の門扉が、その名の由来である。

御殿そのものはきわめて小さい。御玄関・御座ノ間・御次ノ間・御寝所・御学文所が一列に並び、南側には縁が走る。書斎の御学文所は三畳、丸窓が一つ。光圀の御座ノ間と家臣の控えた御次ノ間との間に敷居がない造りは、身分の隔てなく言葉を交わせるようにという光圀の意であったと伝わる。事の真偽はともかく、敷居の不在そのものは現に確認できる珍しい意匠である。

屋根の棟を見上げると、茅の頂に細い葉のイチハツが列をなして植わっている。装飾ではなく、その根が茅を締め、雨を流す実用の植栽である。光圀没後ほどなく成立した『桃源遺事』にも、棟に「芝きり(いちはつ)」が茂っていた旨の記述があり、隠居当時から続く意匠であることがわかっている。

主庭は御殿の南に広がる。流れでつながった二つの池が中心で、上池は白蓮池、別名「心字池」。輪郭が「心」の字をかたどっている。水はここから東へ流れ、御滝と呼ばれる小さな滝口を経て、瓢箪型をした下池の紅蓮池に注ぐ構造であった。御滝は昭和四十三年の改修時の調査で、桜谷津から岩盤をくり抜いた水路で導水していたことが確認されている。現在は水が流れていないが、組まれた石組はそのまま残る。御滝の上に位置するのが観月山。光圀がここで月見の宴を催したという山である。

常陸太田の周辺

西山荘の周囲は、いまも田と杉林の谷である。御殿の入口近くには、光圀の墓所ではないが、父・頼房が眠る瑞龍山(史跡水戸德川家墓所)があり、母・久昌院の菩提寺である久昌寺も近い。光圀ゆかりの三点を一日で巡る旅程が組める。

少し足を伸ばせば、太田温泉やまぶきの湯まで車で五分、道の駅ひたちおおたまで十分。日本三名瀑のひとつ袋田の滝は車で約四十分、長さ三百七十五メートルの竜神大吊橋までは二十五分ほどである。

季節ごとに表情が変わる。春は梅、初夏はアヤメ、秋は楓の紅葉、冬は雪化粧の茅葺き。なかでも十一月下旬から十二月初旬の紅葉は人出が多い。一方で、雪の朝の静けさは『桃源遺事』を読んでから訪ねる人の好む時候である。

Q&A

Qいま見学できる御殿は、光圀本人が住んでいた建物ですか。
Aいいえ。光圀没後に解体され、享保元年(一七一六)に再建されたものも文化十四年(一八一七)の野火で焼失しています。現在の建物は文政二年(一八一九)に第八代藩主・齊脩が元禄期の三分の一の規模で再建したものですが、間取りや位置は当初の図面に忠実です。
Q『大日本史』とはどのような書物ですか。
A水戸藩が編纂した漢文体の日本通史です。明暦三年(一六五七)に光圀が編纂を開始し、完成は明治三十九年(一九〇六)。神武天皇から南北朝期までを記した三百九十七巻からなる大著で、後の水戸学の基盤となりました。
Qテレビドラマの「水戸黄門」と関係がありますか。
Aあります。ドラマの主人公・水戸黄門のモデルが、この西山荘で晩年を過ごした徳川光圀その人です。ただしドラマで描かれる全国漫遊は史実ではなく、実際の光圀の旅は領内の巡視と那須国造碑の修補など限られた範囲のものでした。
Q所要時間の目安は。
A入口の「西山の里・桃源」から園内一周を含め、おおむね九十分から二時間。紅葉時期や写真撮影をゆっくり楽しむ場合は、もう少し余裕を見ておくとよいでしょう。
Qいちばんの見頃の季節は。
A紅葉の十一月下旬、アヤメの六月、雪化粧の一月がそれぞれに評価が高い時期です。春の梅や夏の新緑も静かで、混雑を避けたい場合に向きます。

基本情報

名称西山御殿跡(西山荘)
指定区分国の史跡および名勝(二重指定/平成二十八年三月一日指定)
面積143,302.34 平方メートル
時代江戸時代/現存御殿は文政二年(一八一九)再建
所在地〒313-0007 茨城県常陸太田市新宿町五九〇
所有・管理公益財団法人徳川ミュージアム(徳川ミュージアム分館 西山御殿)
開園時間9:00〜16:00(入園は15:30まで)/年中無休(悪天候時は臨時休園あり)
入場料大人 1,500円/子供 900円(30名以上の団体は大人1,400円・子供800円)
交通JR水郡線 常陸太田駅からタクシーで約5分/常磐自動車道 日立南太田ICから車で約30分

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「西山御殿跡(西山荘)」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00003935
文化遺産オンライン「西山御殿跡(西山荘)」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/255165
公益財団法人徳川ミュージアム「西山御殿 ご利用案内」
https://www.tokugawa.gr.jp/seizanso-2/information/
公益財団法人徳川ミュージアム「西山御殿 アクセス」
https://www.tokugawa.gr.jp/seizanso-2/access/
常陸太田市観光物産協会「西山御殿(ニシヤマゴテン)」
https://www.kanko-hitachiota.com/page/page000051.html

最終更新日: 2026.05.18