旧昭和興業製糸場:長野の製糸業の歴史を今に伝える貴重な産業遺産

長野県松本市の「松本市歴史の里」に佇む旧昭和興業製糸場は、大正時代に建設され、平成7年(1995年)まで実際に稼働していた製糸工場です。令和元年(2019年)に国の登録有形文化財に登録されたこの建物は、繭の買い付けから生糸の出荷まで、すべての製糸工程を一棟の中に残す全国的にも稀少な産業遺産です。かつて「糸の国」として世界にその名を馳せた長野県の製糸業の歩みを、建物と機械の両面から体感することができます。

歴史的背景:吉澤製糸所から昭和興業製糸場へ

この製糸場の歴史は大正14年(1925年)頃に遡ります。長野県諏訪郡下諏訪町において、吉澤義太夫が「吉澤製糸所」として創業したのが始まりです。諏訪地方は、岡谷市を中心に明治から昭和初期にかけて日本の生糸輸出の中枢的役割を担った地域であり、諏訪湖周辺には数多くの製糸工場が立ち並んでいました。

吉澤製糸所の施設はその後、さまざまな会社の手を経て、昭和50年(1975年)に設立された「昭和興業」が製糸事業を引き継ぎました。昭和興業製糸場は平成7年(1995年)まで操業を続け、諏訪地方で最後まで稼働していた製糸工場のひとつでした。

工場が稼働していた当時の様子は、昭和11年(1936年)に農林省蚕糸局が発行した『全国器械製糸工場調』に記録されています。また、関係者への聞き取り調査により昭和12年(1937年)頃の操業状況が復元され、『松本市歴史の里整備事業報告書』にまとめられています。

工場閉鎖の翌年である平成8年(1996年)、松本市はこの建物の歴史的・文化的価値を認め、下諏訪町から現在の松本市歴史の里へと移築・復元しました。建物とともに、工場で実際に使用されていた器械類も移設され、当時の作業環境がそのまま保存されています。

文化財としての価値:なぜ登録有形文化財に登録されたのか

旧昭和興業製糸場は、令和元年(2019年)9月10日に「造形の規範となっているもの」として国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。文化審議会が特に評価した点は以下の通りです。

第一に、製糸場における作業工程を具体的に知ることができる点です。繭の買い付け・保管・乾燥・選繭に続いて、煮繭・繰糸・揚返(再繰)・出荷という一連の工程を行っていた部屋が横並びに現存しており、原料の繭から製品の生糸に至るまでの流れを建物の中で辿ることができます。

第二に、建設当初の姿をよく保っている点です。建物の棟全体に通した越屋根や、腰の高さで横一列に連続するガラス窓など、製糸工場に特有の建築的特徴が当時のまま残されています。越屋根は製糸作業中に発生する熱気や湿気を排出するための換気装置として、またガラス窓は繊細な繰糸作業に必要な採光を確保するために設けられたものであり、いずれも製糸場建築の典型的な形式を示しています。

第三に、建物とともに工場で使用されていた器械類も移設されており、煮繭場・繰糸場・揚返場にはそれぞれ動態保存を目的とした器械が置かれています。建物と器械が一体となって保存されている点は、全国的にも極めて珍しい事例です。

建築の見どころ

旧昭和興業製糸場は、木造平屋建て・平入りの建物です。L字形の平面をもち、本体部分は梁間6.3メートル(21尺)、桁行23.6メートル(78尺)の規模で、西側に12尺(約3.6メートル)四方の突出部を設け、さらにその西側に下屋を差し掛けた構造となっています。

内部の間取りは、各部屋の境に隔壁が設けられ、中央を通路として全体が連続したつくりになっています。これは製糸作業の効率を重視した合理的な設計で、原料が建物の一端から入り、各工程を経て完成品が他端から出荷されるという流れ作業に最適化されていました。

特に注目すべきは越屋根です。建物の棟に沿って設けられたこの構造は、製糸作業で発生する蒸気や熱気を自然に排出する換気機構として機能していました。エネルギーを使わない自然換気の仕組みは、当時の建築技術の知恵を物語っています。また、腰の高さに連続して設けられたガラス窓は、十分な自然光を確保しながら通風も兼ねる実用的な設計です。

館内では、約9分間のドキュメンタリー映像「製糸場最後の日 —旧昭和興業製糸場—」を上映しており、工場が操業していた最後の日々を映像で振り返ることができます。また、約5分間の音声コーナー「ある糸ひき工女の思い出」では、製糸工場で働いた女性たちの生の声を聴くことができます。

長野県の製糸業と諏訪地方の歴史

旧昭和興業製糸場の価値をより深く理解するためには、長野県における製糸業の歴史的背景を知ることが大切です。明治時代以降、長野県は日本の生糸生産の中心地として飛躍的な発展を遂げました。特に諏訪地方は、諏訪湖や天竜川の豊富な水資源、製糸に適した気候条件、そして勤勉な労働力に恵まれ、明治から大正にかけて全国屈指の製糸地帯となりました。

岡谷市はかつて製糸生産高が国内の四分の一を占めたとされ、「糸都岡谷」として栄華を極めました。その影響は隣接する下諏訪町にも及び、吉澤製糸所をはじめとする多くの製糸工場が操業していました。

この時代、飛騨地方などから野麦峠を越えて諏訪・岡谷の製糸工場に向かった若い女性工員たちの物語は、山本茂実の記録文学『あゝ野麦峠』として広く知られています。歴史の里に移築保存されている工女宿「宝来屋」は、まさにこの工女たちが宿泊した宿であり、製糸業の歴史を多面的に体感することができます。

周辺の観光情報

旧昭和興業製糸場が所在する松本市歴史の里は、北アルプスを背景に5棟の歴史的建造物が立ち並ぶ、たてもの野外博物館です。敷地面積は約6,400平方メートルで、江戸時代後期から昭和にかけての信州の近代史を体感できます。

同じ敷地内には、国の重要文化財に指定された旧松本区裁判所庁舎(明治41年築)、旧松本少年刑務所独居舎房(大正15年築)、工女宿宝来屋(松本市重要文化財)、社会運動家・木下尚江の生家などがあり、それぞれの建物が独自の歴史を伝えています。また、川島芳子に関する展示室やシベリア抑留関連資料の展示もあります。

松本市内には、国宝松本城をはじめ、松本市美術館(草間彌生の作品を収蔵)、蔵造りの商家が並ぶ中町通り、城下町の風情を残す縄手通りなど、多彩な観光スポットがあります。隣接する日本浮世絵博物館も見逃せません。

製糸業の歴史にさらに興味をお持ちの方には、岡谷市の岡谷蚕糸博物館(シルクファクトおかや)がおすすめです。松本からJR中央本線で約30分の距離にあり、諏訪地方の製糸業の全盛期から衰退までの歴史を包括的に学ぶことができます。

Q&A

Q富岡製糸場との違いは何ですか?
A群馬県の富岡製糸場(ユネスコ世界遺産)が明治初期に政府主導で設立された大規模な模範工場であるのに対し、旧昭和興業製糸場は大正時代に民間が営んだ小規模な製糸工場です。日本の製糸業を支えていたのは、実はこうした小・中規模の民間工場であり、繭から糸になるまでの全工程を一棟の中で辿ることができる点が大きな特徴です。
Q製糸の機械は実際に動いているのを見られますか?
A器械は動態保存を目的として展示されていますが、常時稼働しているわけではありません。ただし、煮繭場・繰糸場・揚返場にはそれぞれ実際に使用されていた器械が当時の配置のまま展示されており、製糸工程の具体的なイメージを掴むことができます。館内で上映されている映像では、工場操業最後の日々の様子もご覧いただけます。
Q入館料はいくらですか?
A令和7年(2025年)4月1日より、松本市歴史の里の観覧料は無料となりました。どなたでもお気軽にご来館いただけます。
Q見学にはどのくらいの時間がかかりますか?
A旧昭和興業製糸場だけであれば20〜30分程度ですが、歴史の里全体(5棟の建造物と各種展示)をじっくりご覧になる場合は、60〜90分程度を見込まれるとよいでしょう。映像や音声展示もご覧になる場合は、約2時間を目安にお越しください。
Qアクセス方法を教えてください。
A松本電鉄上高地線「大庭駅」から徒歩約15分です。また、松本駅アルプス口(西口)から松本島内線バス(小宮系統)で約20分、「浮世絵博物館・歴史の里」バス停下車すぐです。お車の場合は、長野自動車道松本ICから約5分で、無料駐車場をご利用いただけます。

基本情報

名称 旧昭和興業製糸場(きゅう しょうわこうぎょう せいしじょう)
文化財区分 国登録有形文化財(建造物)
登録年月日 令和元年(2019年)9月10日
登録基準 造形の規範となっているもの
建設年代 大正14年(1925年)頃 / 平成8年(1996年)移築
構造 木造平屋建て、L字形平面、平入り
所在地 〒390-0852 長野県松本市大字島立2196-1(松本市歴史の里内)
所有者 松本市
入館料 無料(2025年4月1日より)
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 毎週火曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日~1月3日)
アクセス 松本電鉄上高地線「大庭駅」から徒歩約15分 / 松本駅アルプス口からバス約20分「浮世絵博物館・歴史の里」下車すぐ
お問い合わせ 松本市歴史の里 Tel:0263-47-4515

参考文献

旧昭和興業製糸場 - 松本市ホームページ
https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/134/3790.html
旧昭和興業製糸場が国の登録有形文化財に登録されます - 松本市歴史の里
https://matsu-haku.com/rekishinosato/archives/847
施設案内 - 松本市歴史の里
https://matsu-haku.com/rekishinosato/shisetsu
ご利用案内・アクセス - 松本市歴史の里
https://matsu-haku.com/rekishinosato/info
松本市歴史の里 - 新まつもと物語
https://visitmatsumoto.com/spot/rekishi-no-sato/

最終更新日: 2026.03.28