名建築家が見せた、静かな和風の仕事
建築家・岡田信一郎の名は、自らを主張する建物とともに記憶されている。歌舞伎座、のちに重要文化財となる堂々たるオフィス建築・明治生命館、大阪の公会堂の当選案。だからこそ、上野の本堂脇に建つ低い瓦屋根の住居、護国院の庫裏に彼の名を見つけると、意外に思う。
昭和二年(一九二七)に建てられたこの庫裏の一階部分は、岡田が手がけた数少ない純和風の作の一つである。当時の岡田は、道を挟んで向かいにある現在の東京藝術大学の前身、東京美術学校の教授であった。作り手が普段はまったく別の作風で仕事をしていた人だからこそ、この建物は二度目の視線に応える。
寛永寺、最初の子院
護国院は寛永寺の歴史のなかで特別な位置を占める。寛永二年(一六二五)に天海が大寺を開いたとき、その下に最初に置かれたのがこの子院で、弟子の生順が創建した。その仏堂である釈迦堂はかつて上野の山で最大の建築であり、根本中堂が完成するまで総本堂の役割を果たしていた。四代・五代将軍の霊廟造営にともなって寺地は転々とし、宝永六年(一七〇九)に現在地へ落ち着いた。
今日の護国院は、三代将軍家光が画像を奉納したと伝わる大黒天でよく知られる。谷中七福神の一つに数えられ、参拝者は今も正月の十日間に巡礼の道をたどる。
岡田をこの寺に呼び込む転機は昭和二年に訪れた。市立中学校(現・都立上野高校)の創立にあたって寺は境内地の大半を譲り、本堂を現在の位置へ移した。新しい庫裏は、その本堂とともに建てられたのである。
庫裏の間取り
庫裏は釈迦堂の西方に建ち、客殿部と住居部に分かれる。客殿部は、七間×二間ほどの中庭を囲んで構成される。北側には玄関・応接室・役僧室が並び、南側には十二畳半の客間と、東西に置かれた十畳二室が続く。四周には縁廊下がめぐる。間取りは実用本位で、それぞれの部屋が用途に応じた位置に据えられ、昭和初期の住宅建築の気風をよく伝えている。
平成十三年(二〇〇一)に登録有形文化財となったこの庫裏は、その明快な平面構成とともに、近代を代表する建築家が完全に伝統的な意匠で手がけた稀な例として評価されている。登録の対象は、昭和二年に竣工した平屋部分である。
Q&A
- 「庫裏」とは何ですか。
- 庫裏は寺院の台所と住居を兼ねた建物で、僧が炊事をし、務めを果たし、客を迎える場です。礼拝の堂ではなく生活のための建物なので、よくできた庫裏は寺の日常をのぞく窓になります。
- 岡田信一郎とはどんな人物ですか。
- 大正から昭和初期にかけて活躍した建築家で、東京美術学校の教授でした。歌舞伎座や明治生命館など代表作の多くは洋風・折衷様式で、だからこそこの和風の庫裏は彼の仕事のなかで際立ちます。
- 中に入れますか。
- 庫裏は寺の生活の場であり、観光施設ではありません。本堂の脇から外観を眺めることができ、御朱印は本堂でいただけます。生活の場であることに配慮して参拝してください。
- 護国院で他に見るべきものは。
- 釈迦堂とも呼ばれる本堂には釈迦三尊坐像が安置され、大黒天は谷中七福神巡りの一つです。大黒天の画像は将軍家光から贈られたと伝わります。
Basic Information
| 名称 | 寛永寺護国院庫裏 |
|---|---|
| 所在地 | 東京都台東区上野公園10-18 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(平成十三年十月十二日登録/登録番号 13-0111) |
| 年代 | 昭和二年(一九二七)、岡田信一郎設計 |
| 構造・員数 | 一棟、木造平屋一部二階建(二階部を除く)・瓦葺、建築面積約三八六平方メートル |
| 所有者 | 宗教法人東叡山寛永寺護国院 |
| 公開状況 | 寺の生活の場。本堂脇から外観を拝観可 |
References
- 文化庁 国指定文化財等データベース/寛永寺護国院庫裏
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00002369
- 台東区/寛永寺子院の歴史・護国院
- https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/history/kaneuji_subtemples/japanese/page_03.html
- 護国院(台東区)/ウィキペディア
- https://ja.wikipedia.org/wiki/護国院_(台東区)
最終更新日: 2026.07.18