木曽川のほとりに移された茶人の住まい
犬山城の東、有楽苑と呼ばれる回遊式の庭園に、木立の下で二棟の建物が並んで立つ。小ぶりなほうは茶室如庵で、国宝に指定され、多くの視線を集める。その隣にあるのが旧正伝院書院で、二棟のうち大きいほうにあたり、それ自体が重要文化財である。両者の区分は大切で、格としては茶室のほうが上だが、隣に建つ書院もまた、それ自身の歴史と美術を備えている。
書院は畳を敷き、縁に開かれた、改まった住居かつ接客の建物である。この書院は床付きの七畳に、六畳の四室と周囲の縁からなり、入母屋造の屋根は現在銅板で葺かれている。一重の建物で、建立は一六一八年(元和四年)ごろとされる。
これは織田有楽斎、すなわち織田長益の隠居所として建てられた。有楽斎は織田信長の弟で、千利休に茶を学んだその高弟の一人に数えられる。京都・建仁寺の正伝院のなかに、茶室如庵と隣り合わせてこの住まいを構え、以来、二棟はともに各地を移ってきた。
重要文化財に指定された理由
書院が国の指定に加えられたのは一九四四年(昭和十九年)九月五日である。その価値の一端は建築にある。名高い茶室の傍らに据えるにふさわしく整えられた、江戸初期の茶人の住居としての姿である。南側の主室は接客の場としても茶座敷としても使える構えをもち、日々の暮らしを茶の営みのうえに組み立てた人物にふさわしい融通がきく。
もう一つの価値は、壁面に残るものにある。内部の襖絵は長谷川等伯と狩野山雪の筆と伝えられ、その名は近世日本絵画の重要な作例のなかに書院の内部を位置づける。これらは通常、内部を間近に拝観する形では公開されていないが、建物そのものは庭側から眺めることができ、抑えた輪郭が植栽を背に明瞭に立ち上がる。
書院のその後の歩みは、所有者の移り変わりをたどる地図のようでもある。明治末に京都を離れて東京の三井家の邸へ移り、さらに大磯の三井家別邸へ、そして一九七二年(昭和四十七年)、名古屋鉄道が建物を取得して犬山へと運び、建築家堀口捨己の手で現在の庭園が整えられた。庭は有楽斎にちなんで有楽苑と名づけられた。
訪れたときに見たいところ
庭側から近づき、二棟のあいだに目を遊ばせたい。茶室は小さく内へ向かう構えをもち、書院はより横に広く、落ち着いていて、その縁は長く腰を据えたくなる。秋にはその縁に沿う紅葉がとりわけよく、庭のほかの場所に残る古い窓ガラスのやわらかな歪みも、もう一度目をやるだけの趣がある。
有楽苑は改修のための休園を経て二〇二二年に再び開かれた。国宝の犬山城からも近く、天守と川辺、そして十六世紀の貴人にして茶人がその晩年を整えたこの静かな一角を、ひと続きの散策でめぐることができる。開苑の時間や苑内の呈茶は季節によって変わるため、出かける前に最新の予定を確かめておくとよい。
Q&A
- 書院は有名な茶室如庵と同じものですか。
- 別のものです。如庵は国宝の茶室で、旧正伝院書院は隣接する住居にあたり、重要文化財に指定されています。両者は有楽苑のなかで隣り合って立っています。
- 内部の襖絵は見られますか。
- 伝来する襖絵のある内部は、通常、間近での拝観には公開されていません。建物は主に庭側から鑑賞します。
- 織田有楽斎とはどのような人物ですか。
- 織田信長の弟で、千利休に学んだ著名な茶人です。この書院と隣の茶室を、自らの隠居の場として営みました。
- この建物はもとから犬山にあったのですか。
- いいえ。京都に始まり、東京と大磯の三井家の邸を経て、一九七二年に犬山へ移され、その周囲に有楽苑が築かれました。
- 犬山城とあわせて訪れられますか。
- はい。国宝の犬山城がすぐ西にあり、徒歩で自然に組み合わせられます。
基本情報
| 名称 | 旧正伝院書院 |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県犬山市御門先 有楽苑内 |
| 指定区分 | 重要文化財(建造物)、一九四四年(昭和十九年)九月五日指定 |
| 年代 | 江戸前期、一六一八年(元和四年)ごろ |
| 形式 | 七畳(床付)、六畳四室および縁よりなる、一重、入母屋造、銅板葺 |
| 所有者 | 名古屋鉄道株式会社 |
| 交通 | 犬山城の東、有楽苑内。開苑時間や呈茶は季節により変動 |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1241
- 名古屋鉄道 日本庭園 有楽苑 公式ガイド
- https://www.meitetsu.co.jp/urakuen/guide/index.html
最終更新日: 2026.06.24