全国の登録有形文化財
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広島県東広島市黒瀬町の金光酒造の煙突。昭和前期の煉瓦造で、一辺約1.5メートルの正方形の基部をイギリス積みとし、高さは約12メートル。頂部を持ち出しの帯で飾り、遠方からも見える地域のシンボルとなっている。
広島県東広島市黒瀬町乃美尾の金光酒造の仕込蔵。明治前期の土蔵造2階建で、T字形に寄棟造と切妻造の棟を組み、白漆喰塗りの外壁とする。1階で酒の仕込みを行う醸造施設の主要な建物で、明治後期に増築されている。
広島県東広島市黒瀬町の金光酒造の貯蔵蔵。明治後期の土蔵造2階建で、桁行39メートルと長大な建物。切妻造の東棟と落棟の西棟からなり、西棟の1階に貯蔵タンクが並ぶ。周囲からよく見え、酒造場の景観をつくっている。
広島県東広島市黒瀬町の金光酒造の離れ。主屋の南に渡り廊下でつながる大正後期の入母屋造の平屋で、床・棚・書院を備えた8畳と6畳を縁と廊下で囲む。磨き丸太の縁桁など数寄屋の意匠を随所に取り入れた建物である。
広島県東広島市黒瀬町の金光酒造の瓶詰所。大正前期の木造2階建の住宅の一部を瓶詰所に転用した建物で、仕込蔵の南に接続する。白漆喰塗りの大壁で、1階の土間に瓶詰機を置き、2階に6畳間が2室東西に並んでいる。
広島県東広島市黒瀬町の金光酒造の包装所。明治前期の土蔵造2階建の家財蔵を包装所に転用した建物で、仕込蔵に接続する。白漆喰塗りの外壁の東妻に三段の水切り瓦を付け、1階を土間の包装所、2階を物置としている。
広島県東広島市黒瀬町の金光酒造の門及び塀。主屋から東に延びる昭和前期の全長7.6メートルの構えで、中央に一間の薬医門を置き、両側に腕木で桁を受ける瓦葺の塀を付ける。庭を仕切り、造り酒屋の表構えをつくっている。
広島県安芸太田町加計の街路に北面して建つ大正10年(1921年)の旧銀行店舗。木造平屋建だが正面と側面に庇を付けてつし二階建の町家風に見せ、寄棟造の軒を出桁造の塗籠とする。側背面に竪板張りの腰壁が残る。
中蔵及び東蔵の東に立つ大正期の煉瓦煙突。角型で高さ約17.7メートル、上部に蛇腹を巡らせ、西条の他の煙突と同じイギリス積とする。使用は停止されたが、酒蔵通りの象徴として保たれている。
店舗兼主屋の西に接続する昭和28年(1953年)頃の接客棟。南に重森三玲作の庭が開き、広縁がその眺めを縁取る。東西続きと南北続きの座敷は数寄屋意匠の座敷飾と天井を備え、建築と庭園が一体の空間として計画された。
店舗兼主屋と中蔵及び東蔵、火蔵を結ぶ南北棟の土蔵造二階建。大正期の建築で、現在は商品倉庫として各棟を屋内で繋ぐが、当初は酒蔵として建てられたとみられ、賀茂泉酒造の創業期の配置を伝える一棟である。
日本三大銘醸地・西条の酒蔵通りに北面する賀茂泉酒造の主屋。明治後期の木造町家で、縦格子の正面と二階の袖壁を備え、東の土間と西列の六室、十畳の主座敷を一棟に収める。店舗部分は見学できる。
建築面積約16平方メートルの小さな二階建土蔵で、酒蔵の登録建造物のうち最も小さい。明治後期の建築で、新座敷建設時に曳家で現在地へ移された。ほぼ窓を持たない閉鎖的な壁体と、北面の水切瓦一列を外観の特徴とする。
通路棟の南に延びる大正期の土蔵造二階建。一階の通路を挟んで東蔵と中蔵に分かれる一棟で、白漆喰の大壁と赤瓦、漆喰塗込の窓格子、東妻の水切瓦を備える。西条酒蔵通りの景観を形づくる大規模な酒蔵である。
通路棟の西に接続する大正後期の二階建土蔵。北東棟と南西棟を一棟にまとめ、新座敷の作庭後に重森三玲の指示で海鼠壁を貼る改修を受けた。酒造の蔵でありながら、庭園空間の背景を担う建物である。
東広島市西条本町、賀茂鶴酒造創業の地の南東隅に残る明治前期の石造の井戸。地上は切石積の六角形の井戸桁、地下は自然石を円く組み、創業のころから使われてきたとされる。敷地に4基ある登録井戸のうちの一つである。
東広島市西条本町、賀茂鶴酒造創業の地に建つ明治前期の土蔵造2階建の土蔵。建築面積31平方メートルと登録19件で最も小さく、外は軒まで塗籠、内は横板張で床は板敷とする。隣の南土蔵と並んで妻を西に向けている。
東広島市西条本町、賀茂鶴酒造創業の地の西辺に延びる明治前期の土蔵造2階建の酒蔵。大正・昭和に南へ継ぎ足され、小屋組は南半がトラス、ほかは和小屋で組む。いまは東棟とともに蔵元直営店として無料で公開されている。
東広島市西条本町、賀茂鶴酒造創業の地で西棟と向かい合う明治前期の土蔵造2階建の酒蔵。外を大壁、内を真壁とし、八角材を多く使う和小屋と内法の高い土間をもつ。いまは蔵元直営店の一部で、見学ツアーの集合場所。
東広島市西条本町、賀茂鶴酒造創業の地で北土蔵の南に建つ明治前期の土蔵造平屋建の土蔵。意匠は北土蔵とほぼ同じだが梁間5.3メートルと幅広く、2つの妻を揃えて西へ向ける。年代は文化庁と東広島市の資料で異なる。