湯築城跡とは:道後温泉の入口にある河野氏の城跡

湯築城跡(ゆづきじょうあと)は、愛媛県松山市の道後公園にある、伊予国の守護河野氏の中世の城跡で、平成14年(2002年)9月20日に国の史跡に指定された。

文化庁の解説によると、松山市街地の東部、道後温泉の入口に位置し、石手川右岸の扇状地に北から延びる丘陵の南端が突き出た場所にある。

南北350メートル、東西295メートルの、角を丸めた長い亀甲形で、比高差31メートルの中央の丘陵部を中心に、内側に土塁を伴う堀を二重に巡らせた平山城である。

河野氏と湯築城

文化庁によると、河野氏は伊予国越智郡を本拠とする豪族で、源平の戦いで活躍し、鎌倉時代には御家人となった。時宗の開祖一遍もこの一族の出身である。元寇の際には水軍を率いて活躍し、伊予国での地位を固めた。

松山市によると、河野通盛が建武年間(1334年から1338年)に湯築城を築いた。室町時代に河野氏は伊予国の守護に任じられたが、戦国時代には内紛などで力を落とし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻めで小早川隆景に降り、城はやがて廃城となった。

道後公園によると、築城当初の14世紀前半は中央の丘陵部を利用した山城で、約200年後の16世紀前半に周囲に外堀が築かれ、二重の堀と土塁を巡らせた平山城になったと推定されている。

発掘調査と史跡の価値

文化庁によると、江戸時代には松山藩が城跡を管理し、遺構はそのまま残された。明治19年(1886年)に道後植物園、明治21年(1888年)に県立道後公園となり、動物園などが置かれた。昭和62年(1987年)の動物園の移転に伴う発掘調査で、遺構がよく保存されていることが確認された。

昭和63年度から平成11年度(1988年度から1999年度)の調査で、16世紀前半以降の4時期にわたる遺構面が確認された。城跡の南東側には庭園をもつ屋敷群、南西側には家臣団のものとみられる8区画の屋敷跡、屋敷群と丘陵部を分ける内堀などが見つかり、青磁や青花の大皿などの輸入陶磁器が大量に出土した。

遺構の配置は、江戸時代に描かれたとみられる『湯築古城図』とよく合っていた。松山市は、全国でも極めて重要な中世の守護の城跡としている。

湯築城跡の見学方法

湯築城跡は道後公園として整備され、自由に散策できる。公園内の湯築城資料館では、発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士の生活をパネルと出土品で紹介している。

道後公園によると、外堀や内堀、土塁、武家屋敷の復元などを見学路に沿って見られる。問い合わせは湯築城資料館管理事務所(089-941-1480)へ。

Q&A

Q湯築城跡はいつ国の史跡に指定されましたか?
A平成14年(2002年)9月20日に指定されました。
Q湯築城跡を築いたのは誰ですか?
A松山市によると、伊予国守護の河野通盛が建武年間(1334年から1338年)に築きました。
Q湯築城跡の大きさは?
A南北350メートル、東西295メートルで、二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。
Q湯築城はいつ廃城になったのですか?
A天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国攻めで河野氏が降伏したのち、廃城となりました。
Q湯築城跡は見学できますか?
A道後公園として整備され、自由に散策できます。湯築城資料館もあります。

基本情報

名称湯築城跡(ゆづきじょうあと)
所在地愛媛県松山市道後公園
指定区分史跡
指定年平成14年(2002年)9月20日指定
員数文化庁データベースに記載なし
寸法南北350メートル、東西295メートル
所有者愛媛県ほか(松山市による)
公開状況道後公園として公開

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「湯築城跡」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/3339
文化遺産オンライン「湯築城跡」
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/207173
松山市「湯築城跡」
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/kuni/yudukijou_ato.html
道後公園「湯築城跡の概要」
https://dogokouen.jp/yuzukijoato/

最終更新日: 2026.09.28