9.4平方メートルに詰め込まれた木割
福泉坊鐘楼は、広島県安芸高田市吉田町吉田にある浄土真宗本願寺派寺院の鐘楼で、昭和29年(1954年)の建立とされ、平成26年(2014年)12月19日に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
建つのは境内の西方、本堂に隣接する位置である。平面は一間四方。四方に壁を持たない吹放ちで、屋根は入母屋造の桟瓦葺。面積は9.4平方メートルにとどまる。
この数字は覚えておきたい。鐘楼が占める床は、本堂のおよそ43分の1にすぎない。福泉坊の登録4棟のうち群を抜いて小さく、そして1平方メートルあたりに詰め込まれた仕事量では、同じく群を抜いて多い。
一点、記録上の問題を断っておく。文化庁データベースは時代欄を「江戸」とする一方、年代欄と西暦欄には昭和29年(1954年)を記す。両者は整合しない。具体的な年次を示す二つの欄が一致していることから、本稿は1954年を採るが、この食い違いは未解決である。年代を典拠として用いる場合は、安芸高田市教育委員会に照会されたい。
足元から軒まで
まず足元から見る。鐘楼は切石積の基壇の上に建ち、その基壇の上に石製の礎盤が据えられ、柱一本ごとにこれを受ける。木部を加工した石で地面から浮かせるのは、単純な問題への単純な解答である。湿った土に触れた木は腐る。まして鐘楼には、雨を足元から遠ざけてくれる壁がない。
礎盤から立ち上がる四本の丸柱は、垂直に立ってはいない。四本とも上方へ向かってわずかに内傾している。四方転びという。効果は二つあり、一つは構造上のもので、転びのある軸組は垂直に立てたものより水平力に強い。もう一つは視覚上のもので、上すぼまりの輪郭は安定して見える。鐘楼にはその両方が要る。梵鐘を撞くとは、重い撞木を青銅の塊に打ちつけることであり、その衝撃を軸組は何十年にもわたって受け止め続ける。
四本の柱は、腰の高さで腰貫、頭で頭貫によって固められる。貫は柱に突き当てるのではなく貫通させる部材で、この構法が軸組の粘りを生む。さらに上端を台輪が一周して締める。台輪が重要なのは、その上に載るもののためである。
載っているのは、尾垂木付の出組を詰組としたものである。この三語をほどくことが、この建物を見る作業のほぼすべてにあたる。出組は一手先へ持ち出して軒を柱筋から遠くへ支える組物。尾垂木は組物の内部へ斜めに差し込まれる部材で、これを梃子として、持ち出した軒の重さを片持ちで支えるのではなく後方で釣り合わせる。詰組は、組物を柱の上だけに置くのではなく、台輪の上に隙間なく並べる配置をいう。
詰組は鎌倉時代の禅宗様とともに日本へ入り、以後は格の高い建築の指標として定着した。9.4平方メートルの建物にこれを用いるのは、ほとんど贅沢である。建物が小さくなっても、必要な組物の数はそれに比例して減ってはくれない。登録の解説文は、この鐘楼を「細部絵様や組物の充実した」ものとし、真宗寺院の伽藍を特徴づけると述べる。
戦後という時間
登録4棟の年代を並べると、ある形が浮かぶ。
山門は文政13年(1830年)、庫裏も同じ江戸末期。そこから一世紀以上が空く。本堂が昭和23年(1948年)、この鐘楼が昭和29年(1954年)。福泉坊の4棟のうち二棟が、太平洋戦争の終結から9年のあいだに建てられている。
梵鐘には、この時期固有の歴史がある。昭和10年代の金属類回収令のもとで、全国の寺院から青銅の梵鐘が供出され、軍需資材として鋳つぶされた。終戦後の十年間は、各地で梵鐘の鋳造と、それを吊る建物の再建が相次いだ時期にあたる。ただし文化庁の記録は、福泉坊の鐘楼がなぜ昭和29年に建てられたのかを記していない。この一般的な経緯を、この寺の事情として断定することはできない。確かなのは、記録された年代がその文脈のただ中に位置するということである。
言えることはもう一つある。昭和23年に本堂を建て替えたばかりの門徒たちが、その六年後、六畳ほどの床面積の建造物に、詰組と尾垂木を備えた鐘楼を選んだ。倹約とは反対の判断である。
拝観と交通
福泉坊は観光施設ではなく、現役の門徒寺院である。拝観料も受付も、公表された拝観時間もない。
鐘楼は四方吹放ちであるため、境内に入りさえすれば4棟のなかでもっとも観察しやすい。境内は日中おおむね立ち入ることができる。真下に立って軒裏を見上げてほしい。組物と尾垂木は下から仰がなければ形が読めず、壁のない造りゆえに視界を遮るものが何もない。
梵鐘を撞くことは控えたい。鐘を鳴らすのは時刻と機会の定まった宗教行為であり、寺に委ねるべきものである。境内からの外観撮影は通常さしつかえないが、法要や葬儀の最中は控える。本堂の堂内に上がるには事前に寺務所への連絡が必要で、庫裏は住居のため非公開である。
吉田バス停から寺までは約120メートル、徒歩2分ほど。安芸高田市役所前バス停もほど近い。広島バスセンターから吉田出張所行きで約1時間25分、JR可部駅からは広島電鉄バスで約50分。JR芸備線の吉田口駅は3.8キロメートル離れた無人駅のため、鉄道なら芸備線向原駅からタクシーで15〜20分が確実である。自動車は中国自動車道高田インターチェンジから約20分。徒歩圏には郡山城跡と安芸高田市歴史民俗博物館があり、あわせて訪ねやすい。
Q&A
- 福泉坊鐘楼はいつ建てられましたか。
- 国指定文化財等データベースは年代を昭和29年(1954年)と記録しています。ただし同じ記録の時代欄は「江戸」とされており、1954年という年次と整合しません。年代欄と西暦欄がともに1954年を示すため一般にはこちらが採られますが、この食い違いは未解決で、典拠として用いる場合は安芸高田市教育委員会への照会をおすすめします。
- 福泉坊鐘楼の見どころはどこですか。
- 軒裏を真下から見上げてください。組物は尾垂木付の出組で、柱の上だけでなく台輪の上に隙間なく並べる詰組としており、格の高い構法です。足元では、四本の丸柱が四方転びに内傾して立ち、切石積基壇上の石製礎盤に載る様子を確認できます。壁のない吹放ちのため、いずれも遮るものなく観察できます。
- 福泉坊鐘楼は他の登録建造物と比べてどのくらいの大きさですか。
- 面積9.4平方メートルで、本堂の404平方メートル、庫裏の209平方メートルと比べて格段に小さく、登録4棟のうち最小です。平面は一間四方、四方吹放ちで、屋根は入母屋造桟瓦葺。登録上の種別は山門と同じく「その他工作物」に区分されています。
- 福泉坊鐘楼の梵鐘を撞くことはできますか。
- 参拝者による撞鐘はご遠慮ください。鐘を鳴らすことは時刻と機会の定まった宗教行為で、寺に委ねるべきものです。鐘楼そのものは境内から日中自由に近づいて観察でき、拝観料もかかりません。
- 古い寺院なのに福泉坊鐘楼が昭和のものなのはなぜですか。
- 登録4棟のうち二棟が戦後の建立です。本堂が昭和23年、鐘楼が昭和29年にあたります。戦時中は金属類回収令により全国の寺院から梵鐘が供出され、戦後は鐘の鋳造と鐘楼の再建が各地で相次ぎました。ただし福泉坊の記録は昭和29年という年代の理由を記しておらず、この一般的な経緯をこの寺の事情として断定することはできません。
基本情報
| 名称 | 福泉坊鐘楼(ふくせんぼうしょうろう) |
|---|---|
| 所在地 | 広島県安芸高田市吉田町吉田字下川東1334-1 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物・その他工作物)/登録番号 34-0145/登録基準「国土の歴史的景観に寄与しているもの」 |
| 指定年 | 平成26年(2014年)12月19日登録(第79回登録) |
| 員数 | 1棟 |
| 寸法 | 木造、瓦葺、面積9.4平方メートル/一間四方、吹放ち、入母屋造桟瓦葺/昭和29年(1954年)建立(文化庁データベースの時代欄は「江戸」とし年代欄と整合しない) |
| 所有者 | 宗教法人福泉坊 |
| 公開状況 | 境内から日中見学可、拝観料なし。参拝者による撞鐘は不可 |
参考文献
- 文化庁 国指定文化財等データベース「福泉坊鐘楼」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00010353
- 文化庁 国指定文化財等データベース「福泉坊本堂」
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00010351
- 安芸高田市「福泉坊(本堂、庫裏、鐘楼、山門)」
- https://www.akitakata.jp/ja/shisei/section/kyouiku/shisekibunkazai/cultural_asset/q123/
最終更新日: 2026.07.29