後村上天皇の行宮となった金剛寺食堂

金剛寺食堂は、大阪府河内長野市天野町の天野山金剛寺にある室町時代前期(1333〜1392年)の建物で、昭和16年(1941年)11月6日に国の指定を受けた重要文化財である。読みは「じきどう」。

食堂は、もともと僧たちが集まって食事をとるための堂である。金剛寺食堂は中心伽藍のなかで金堂の東側に建ち、寺の保存活用計画は、その位置に「天野殿」という呼び名を添えている。

寺の歴史によれば、南朝の後村上天皇は正平9年(1354年)から5年にわたり、子院の摩尼院と金剛寺食堂を行宮とした。寺の案内は、天皇がこの食堂で約5年間政務をとったと伝えている。

妻入に唐破風を付けた外観

文化庁の記載によると、金剛寺食堂は桁行7間、梁間3間の一重で、屋根は入母屋造の本瓦葺、入口を妻側に設ける妻入である。正面には軒唐破風を付ける。

妻入の建物では、屋根の三角形の面が正面に来る。金剛寺食堂はその妻の下に曲線を描く唐破風を加え、細長い堂の短い辺を正面として引き立てている。

唐破風の葺き材は資料によって書き方が違う。文化庁は本瓦葺と記すが、寺の保存活用計画は妻正面の唐破風を檜皮葺とし、屋根の傷みを述べる箇所でも「妻側正面の檜皮葺」に触れている。本記事は両方の記載を示しておく。

昭和16年(1941年)の指定は、昭和期に制定された保存法のもとで行われた。昭和25年(1950年)8月29日に文化財保護法が施行され、金剛寺食堂は重要文化財となった。

屋根の修理を重ねてきた金剛寺食堂

計画の建物一覧によると、金剛寺食堂は慶長11年(1606年)に根本修理を受け、元禄13年(1700年)にも修理された。大正13年(1924年)に屋根が葺き替えられ、昭和29年(1954年)には屋根の解体修理が行われた。この工事の報告書は昭和30年(1955年)に大阪府教育委員会が刊行している。平成7年(1995年)には屋根の部分修理があった。

計画は現状について、躯体には軽微な修理が、屋根には維持のための修理が必要だとする。妻側正面の檜皮葺と主屋根の本瓦葺の劣化を見守りながら、屋根全面の修理方針を検討する計画である。

金剛寺食堂の見学

金剛寺食堂は中心伽藍の拝観範囲にあり、伽藍の拝観券で外観を見学できる。正面に立つと、妻入の三角形の妻と、その下の唐破風が重なる構えがよく分かる。

堂内に入れるかどうか、撮影してよいかは受付で確かめてほしい。境内への行き方と拝観時間・料金は、天野山金剛寺のページにまとめてある。

Q&A

Q金剛寺食堂はなぜ南北朝の歴史と結びつくのですか?
A寺の歴史によると、南朝の後村上天皇が正平9年(1354年)から5年にわたり、摩尼院と金剛寺食堂を行宮としたためです。寺の案内は、天皇がここで政務をとったと伝えています。
Q金剛寺食堂はいつ建てられましたか?
A文化庁の記録では室町時代前期(1333〜1392年)です。
Q金剛寺食堂の建物にはどんな特徴がありますか?
A桁行7間・梁間3間で、入母屋造・本瓦葺の妻入の堂です。正面には軒唐破風が付きます。
Q金剛寺食堂は何と読みますか?
A「じきどう」と読みます。僧が食事をとる堂を指す語で、寺の保存活用計画は金剛寺食堂の位置に「天野殿」の呼び名も添えています。
Q金剛寺食堂はいつ重要文化財になりましたか?
A昭和16年(1941年)11月6日に国の指定を受け、昭和25年(1950年)8月29日の文化財保護法施行で重要文化財となりました。

基本情報

名称金剛寺食堂(こんごうじじきどう)
所在地大阪府河内長野市天野町
指定区分重要文化財(建造物)
指定年1941年(昭和16年)
員数1棟
寸法桁行7間・梁間3間、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺、正面軒唐破風付
所有者金剛寺
公開状況伽藍の拝観範囲で外観を見学可(有料)

参考文献

最終更新日: 2026.09.21