越後国瀬波郡絵図 ― 検地の世紀に描かれた一枚

宝永4年(1707年)、米沢藩の蔵から、ひどく破損した二枚の彩色絵図が見つかった。藩の記憶からはすでに忘れられていたらしい。藩当局はただちに修理に取りかかり、あわせて他の郡を描いた絵図がないかと米沢と江戸藩邸を探したが、ついに出てこなかった。残されていたのはこの二枚だけだった。そのうちの一枚が、ここで取り上げる越後国瀬波郡絵図である。

瀬波郡は越後国の北の端を細長く占めた郡で、のちに岩船郡と呼ばれた。現在の新潟県北部、村上市のあたりにあたり、海岸線が出羽との境へ向かって折れていく一帯である。絵図は一鋪の彩色図で、製作は遅くとも慶長2年(1597年)、安土桃山時代の末にさかのぼる。現在は山形県の米沢市上杉博物館が保管し、所有者は米沢市である。

領国検地のさなかに描かれた

この絵図がなぜ作られたのかは、描かれた土地に当時何が起きていたかと切り離せない。越後の村々は、十六世紀の終わりに一筆ずつ測られていた。文禄4年(1595年)には豊臣秀吉によるいわゆる太閤検地が越後に及び、続く文禄5年から慶長2年にかけて、領主であった上杉氏が独自の領国検地を行った。瀬波郡絵図は、その成果を反映したものと考えられている。

製作の年代は、図に記された人名から絞り込まれる。対になる頸城郡絵図の裏貼紙には「慶二霜月十二日」、すなわち慶長2年にあたる日付の記載がある。さらに両図に書き込まれた知行人の名前は、上杉景勝が慶長3年(1598年)に会津へ移される前の顔ぶれである。移封の後には知行人の構成が変わるため、絵図はそれ以前の状態を記録していることになる。景勝が会津へ、のちに米沢へと移る際、上杉家はこれらの絵図を携えていった。越後の絵図が山形の蔵に残った経緯はそこにある。

瀬波郡は、古代以来の越後七郡のうち最も北に位置した。その名は今も村上市周辺の地名に残り、古い呼び名である岩船は、現在も同じ地域の一部を含む郡の名として用いられている。

指定の理由

この絵図は、平成13年(2001年)6月22日、歴史資料として重要文化財に指定された。頸城郡絵図と二鋪一組での指定であり、寛保元年(1741年)に作られた越後国絵図の写本一鋪が、附(つけたり)として加えられている。この写本が仕立てられたのは、もとの郡絵図だけでは越後全体を覆いきれず、藩が完全な国絵図をあわせ持とうとしたためであった。

瀬波郡絵図の価値は、その古さと描き方にある。近世のごく初期、国や郡という大きな単位で描かれた絵図のうち、現存する最も早い例の一つである。江戸時代に入ると国絵図は記号化と縮尺の統一が進み、約束事の多い図面へと変わっていく。この絵図はそれ以前のものである。縮尺は場所によって一定せず、土地は測量図というより中世以来の絵画的な手法で描かれている。新しい厳密さで国土が測られながら、まだ古い視覚言語で写し取られていた、その移り目の一枚といえる。

見どころ

まず目に入るのは彩色である。城郭、村落、町場、寺社、道路、橋梁、耕地、河川、山岳が描き込まれ、一枚の絵としても眺められる。郡と郷の境だけが朱線で引かれ、図面の記号らしく振る舞っているのが対照的だ。

近づくと、今度は墨書が前面に出てくる。郷名、村名、それぞれを預かる知行人の名前、本納、縄高、家数が記されている。検地が生み出す数値が、その土地を描いた絵の上に直接書き込まれているのである。対になる頸城郡絵図では、これに住人数まで加えられている。書き込みを読むことは、十六世紀の検地役人の手もとをのぞき込むことに近い。

見るときに思い出しておきたいのは、この一枚がかつて破片であったことだ。十八世紀初めに藩が施した修理があってはじめて、今こうして広げて調べることができる。

博物館とその周辺

米沢市上杉博物館は、米沢城の跡地、かつて天守が立っていた松が岬公園のかたわらにある。同じ公園内には戦国武将の上杉謙信を祀る上杉神社があり、桜の咲く春など、公園を歩くだけでも気持ちがよい。

博物館の常設展示は、上杉家に伝わった記録類を軸に構成されている。最もよく知られるのは、織田信長から上杉謙信に贈られたと伝わる京都の景観を描いた国宝の屏風で、普段は複製が展示され、原本は春と秋の特別展のときに限って公開される。あわせて、国宝に指定された大量の書状・記録である上杉家文書も、入れ替えながら展示されている。瀬波郡絵図も同じ上杉家の文書群に連なる一点であり、常に展示されているわけではないものの、その世界の一部をなしている。

Q&A

Q訪ねれば実物の絵図を見られますか。
A常時は見られません。傷みやすい彩色資料のため、瀬波郡絵図が公開されるのは特別展などの機会に限られ、常設で出ているわけではありません。実物を目的とされる場合は、来館前に博物館の展示予定を確認し、問い合わせておくと確実です。
Q頸城郡絵図とはどう違うのですか。
A二鋪一組で、同じ時期に描かれ、まとめて指定されています。この一枚は越後北部の瀬波郡を、もう一枚は南部の頸城郡東部を描いています。頸城郡絵図には住人数も記され、両図の年代を定める手がかりとなった日付の記載も残ります。
Q越後の絵図がなぜ山形にあるのですか。
A絵図が作られた当時、越後を治めていたのは上杉氏でした。上杉景勝が慶長3年(1598年)に会津へ、のちに米沢へ移った際、家中の文書とともに携えていったためです。以来、米沢の上杉家伝来資料の中で守られてきました。
Q慶長2年以前という年代はどう判断したのですか。
A対になる頸城郡絵図の裏貼紙に慶長2年にあたる日付の記載があり、また両図に記された知行人が、景勝の会津移封(慶長3年)以前の顔ぶれであることから、製作はおそくとも慶長2年と推定されています。
Q博物館では他に何が見られますか。
A国宝の京都景観図の屏風が見どころで、同じく国宝の上杉家文書も展示されています。隣接する松が岬公園と上杉神社をあわせれば、半日ほどの行程になります。

基本情報

名称越後国瀬波郡絵図(えちごのくにせなみぐんえず)
所在地米沢市上杉博物館 山形県米沢市丸の内1-2-1
所有者米沢市
指定区分重要文化財(歴史資料) 平成13年(2001年)6月22日指定。頸城郡絵図と二鋪一組で指定、附として寛保元年(1741年)の越後国絵図一鋪
員数一鋪
時代安土桃山時代。製作は遅くとも慶長2年(1597年)
描写対象越後国北端の瀬波郡(のちの岩船郡)。現在の新潟県北部
公開状況常設展示ではなく、特別展などで随時公開。来館前に展示予定の確認を推奨
開館時間9:00–17:00(入館は16:30まで)
アクセスJR米沢駅から市民バス(市街地循環)で約10分、上杉神社前下車。東北中央自動車道・米沢中央インターチェンジから車で約13分

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース「越後国瀬波郡絵図」
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/10502
伝国の杜 米沢市上杉博物館(公式サイト)
https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/
米沢市上杉博物館 収蔵品の概要
https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/uesugi.htm

最終更新日: 2026.06.18