灯台黎明期の煉瓦の官舎 ― 主屋と倉庫の2棟

旧菅島燈台付属官舎は、愛知県犬山市大字内山1番地の博物館明治村にある明治6年(1873年)建設の煉瓦造建築で、昭和43年(1968年)4月25日に国の重要文化財に指定された。指定の員数は2棟。5つの主要な部屋と台所、物入れをもつ主屋が1棟、油庫として用いられた別棟の倉庫がもう1棟である。附として、石造の台座をもつ青銅製の日時計と菅島燈臺地図が指定を受けている。

もとは三重県鳥羽沖、伊勢湾の入口に浮かぶ菅島に、菅島灯台と同じ時に建てられた。昭和34年(1959年)に博物館へ払い下げられ、昭和39年(1964年)に移築を終えている。

建設は、スコットランド人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの指導による。明治元年(1868年)に来日した彼は明治政府が契約を結んだ最初のお雇い外国人の一人で、9年の滞在のあいだに約30基の主要な灯台を手がけ、灯台職員の育成や管理組織の整備、横浜居留地の都市計画にも携わった。日本では灯台の父と呼ばれている。

なぜ和風でないのか

明治村の一角に立つこの建物は、正面に縁を回した低い煉瓦の家で、和風には見えない。それこそが要点である。

菅島灯台はブラントンを長とする工部省燈台局のイギリス人技術者が設計監理を担い、灯火の管理も当初は外国人の手で行われた。住み手が西洋の住様式に慣れた人々であったため、官舎は日本の木造住宅ではなく、煉瓦造の植民地様式の住宅として建てられた。幕末から明治にかけて開港した日本の沿岸では外国船の海難が相次ぎ、新政府は航路の安全を確保するため西洋式灯台の建設を急いだ。この建物は、その事業を担う人々のために日本の地に建てられた初期の西洋式住宅の一例である。

建築面積は主屋が約119.3平方メートル、倉庫が約11.4平方メートル。規模は大きくない。価値は規模ではなく性格にある。明治初年に日本が西洋の技術をいかに受け入れていったかを示す、数少ない現存建築の一つとして評価された。明治初期の灯台官舎として典型的でよく保たれ、外観の意匠にも確かな質をもつ点が指定の理由に挙げられている。

2棟で一件である理由

倉庫は桟瓦葺の一階建で、小さいながら主屋と同じ水準で造られている。油庫として使われた建物である。

灯台官舎は住まいであると同時に施設である。灯火を絶やさないためには油の備蓄が要り、それを住居と分けて別棟に置くという判断そのものが、この建物群の性格を示している。主屋だけを見れば異国風の住宅、倉庫だけを見れば小さな煉瓦の物置だが、両方を並べれば、島に置かれた灯台運用の最小単位が見えてくる。指定が2棟をまとめているのはそのためである。

附の日時計にも触れておきたい。明治前半に灯台施設へ置かれるようになった器具で、時刻の管理が灯火の運用に直結していたことを示す。明治村では官舎のそばではなく、村内の旧三重県庁舎のなかで明治の時計をめぐる展示の一部として公開されている。探し当てるのも見学の楽しみに加わる。

見どころ ― 開口部と煉瓦

正面から近づくと、ベランダがこの住宅の中心であることがわかる。ベランダには3か所の出入口が開き、それぞれ煉瓦のアーチで縁取られ、上部に半円形の欄間がはまる。各出入口は内開きのガラス戸と外開きの鎧戸を組み合わせており、灯台守が光と海風、潮気を加減できるよう工夫されている。窓は上げ下げ窓で、やはり鎧戸を備え、その上の煉瓦は単なる楣ではなく浅い水平アーチとして積まれている。

煉瓦の積み方はイギリス積み、長手の段と小口の段を交互に重ねる方式である。白く塗られた外壁の上には木造の洋小屋を組み、桟瓦で葺いている。輸入された構法と国産の屋根材を組み合わせた、この時代らしい取り合わせといえる。

多くの初期洋風建築とこの建物を分ける点が一つある。使われた煉瓦が輸入品ではなく、国内で焼かれたものだという事実である。菅島の工事に用いられた煉瓦も瓦も、近くの渡鹿野島で焼いていた瓦屋竹内仙太郎の手になるものとされ、刻印を残すものもある。煉瓦製造がまだ国内に根付いていなかった時期の、早い用例である。煉瓦に近づけば、この洋風の姿を、舟でわずかの距離にある窯と結ぶ刻印を探すことができる。

室内では建具に目をとめたい。扉、開口部の額縁、巾木などには、上等な木材を模した木目塗りが施されている。この塗装技法は燈台局に関係する建物に好んで用いられた特徴で、これを見つけることが、同じ時期に各地の海岸に建った姉妹建築とこの官舎を結びつける手がかりになる。

拝観 ― 灯台とは別の場所にある

官舎は、かつて仕えた灯台とは区別しておきたい。菅島灯台はいまも島に立ち、令和4年(2022年)にそれ自身が重要文化財に指定され、現役では日本最古の煉瓦造灯台として認められている。一方の官舎は移築されたもので、いまこれを見るには愛知県犬山市の博物館明治村を訪れることになる。

旧官舎は明治村の3丁目に置かれている。入鹿池のほとりに広がるこの野外博物館は、昭和40年(1965年)の開村以来60棟を超える明治時代の建造物を集めてきた。うち11棟がこの官舎を含む重要文化財であり、一度の見学で、19世紀の日本が煉瓦・石・木でいかに自らを作り直したかを広く見渡すことができる。

敷地は広大なため、村内を走る蒸気機関車や京都市電に乗って移動する来訪者も多い。入口では英語と日本語に対応した音声ガイドを借りられる。開村時間と入村料は季節により変動し、休村日もあるため、訪問前に明治村公式サイトで確認してほしい。交通は名鉄犬山駅からバスを利用する。

Q&A

Q旧菅島燈台付属官舎はいつ建てられ、いつ指定されましたか。
A明治6年(1873年)、三重県鳥羽沖の菅島に菅島灯台と同時に建てられました。昭和34年(1959年)に博物館へ払い下げられ、昭和39年(1964年)に博物館明治村へ移築されています。国の重要文化財の指定は昭和43年(1968年)4月25日で、員数は主屋1棟と倉庫1棟の計2棟です。
Q旧菅島燈台付属官舎はなぜ洋風なのですか。
A住み手が西洋の住様式に慣れた人々だったためです。菅島灯台はブラントンを長とする工部省燈台局のイギリス人技術者が設計監理を担い、灯火の管理も当初は外国人の手で行われました。そのため日本の木造住宅ではなく、煉瓦造の植民地様式の住宅として建てられています。
Q旧菅島燈台付属官舎が2棟で一件の指定なのはなぜですか。
A主屋と、油庫として使われた別棟の倉庫がセットだからです。灯火を絶やさないための油の備蓄を住居と分けて置くという判断そのものが、この建物群の性格を示しています。両方を並べれば、島に置かれた灯台運用の最小単位が見えてきます。
Q旧菅島燈台付属官舎の煉瓦は輸入品ですか。
Aいいえ、国内で焼かれたものです。菅島の工事に用いられた煉瓦も瓦も、近くの渡鹿野島で焼いていた瓦屋竹内仙太郎の手になるものとされ、刻印を残すものもあります。煉瓦製造がまだ国内に根付いていなかった時期の早い用例です。
Q旧菅島燈台付属官舎はどこで見られますか。菅島灯台とは違いますか。
A愛知県犬山市の博物館明治村の3丁目にあります。菅島灯台のほうは今も三重県の島に立っており、令和4年(2022年)にそれ自身が重要文化財に指定され、現役では日本最古の煉瓦造灯台とされています。開村時間・入村料は季節により変わるので、明治村公式サイトで確認してください。

基本情報

名称旧菅島燈台付属官舎(きゅうすがしまとうだいふぞくかんしゃ)
所在地愛知県犬山市大字内山1番地 博物館明治村(三重県鳥羽市菅島町より移築)
指定区分重要文化財(建造物)
指定年昭和43年(1968年)4月25日
員数2棟(主屋1棟、倉庫1棟)/附 日時計1基、菅島燈臺地図
寸法主屋 煉瓦造(イギリス積み)、一階建、桟瓦葺、建築面積約119.3平方メートル/倉庫 煉瓦造、一階建、桟瓦葺、建築面積約11.4平方メートル/明治6年(1873年)、昭和39年(1964年)までに移築
所有者公益財団法人明治村
公開状況博物館明治村3丁目にて公開。開村時間・入村料・休村日は季節により変動するため公式サイトで要確認。名鉄犬山駅よりバス

参考文献

文化庁 国指定文化財等データベース 旧菅島燈台付属官舎(主屋)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1246
文化庁 国指定文化財等データベース 旧菅島燈台付属官舎(倉庫)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/102/1247
文化遺産オンライン 旧菅島燈台付属官舎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/155785
博物館明治村 菅島燈台附属官舎
https://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/3-30.html
愛知県 文化財ナビ 旧菅島燈台付属官舎
https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0054.html

最終更新日: 2026.08.31

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