敵も味方も葬った石塔
藤沢市にある清浄光寺の東門をくぐると、すぐ左手に方柱形の石塔が立っている。表面には「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれ、その下には、室町時代の初めに関東を揺るがした戦乱の死者を弔うために建てられたという由来が記されている。敵も味方も区別しない、という点にこの石塔の意味がある。
名称は藤沢敵御方供養塔(ふじさわてきみかたくようとう)。「敵御方」は敵と味方の双方を指し、「供養塔」は死者の冥福を祈って建てる塔をいう。大正15年(1926年)10月20日、国の史跡に指定された。
清浄光寺は遊行寺(ゆぎょうじ)の通称で広く知られ、時宗の総本山にあたる。供養塔は参詣者が行き交う境内の一角にあり、気づかず通り過ぎてしまいそうな小さな石である。しかしそこに刻まれた考え方は、当時としては際立っていた。
上杉禅秀の乱と藤沢
応永23年(1416年)10月、上杉氏憲が鎌倉公方の足利持氏に対して挙兵した。氏憲は出家して禅秀と名乗っており、この戦いは上杉禅秀の乱と呼ばれる。氏憲はかつて持氏を補佐する関東管領の職にあったが、鎌倉府内の対立から持氏と袂を分かった。
戦火は関東一円に広がった。京都の幕府は持氏を支援して討伐軍を送り、戦いは数か月で決着する。応永24年(1417年)の初め、禅秀は自害した。
藤沢は戦場に近かった。遊行寺には傷ついた兵や戦死者の遺体が運び込まれ、境内で自ら命を絶つ者もいた。藤沢市文書館に残る記録によれば、犠牲となったのは将兵だけではなく、多くの軍馬も倒れたという。
寺はその惨状の外にいなかった。時宗十四代の遊行上人である太空(たいくう)は、一山の僧や近隣の人々とともに、敵味方の別なく負傷者を収容して治療にあたり、戦死者を葬った。応永25年(1418年)、戦乱から三回忌にあたる年に、この石塔が建てられた。地元の記録は、乱に勝利した持氏を施主とし、太空を導師としてこの供養が営まれたと記している。
建立年については記述に食い違いがある。大正15年の指定時にまとめられた解説文は、塔に刻まれた年号を応永33年(1426年)と読む。一方、寺や市に伝わる記録は応永25年(1418年)とする。両者の相違はそのままだが、乱の直後の十数年のうちに建てられた石塔である点は変わらない。
なぜ史跡に指定されたのか
中世の戦では、敵方の死者を手厚く弔うことは普通おこなわれなかった。敗れた軍の遺体は、倒れた場所に置き去りにされることも少なくない。敵と味方の双方のために一基の塔を建て、その意図を石にはっきり刻むという行いは、時代の常識から外れていた。
この選択は、時宗の教えと深く結びついている。開祖の一遍は、鎌倉時代に諸国を巡り、念仏の札を配って歩いた。念仏を称えれば誰もが等しく極楽に往生できる。武士であれ庶民であれ、信心の篤い者もそうでない者も、身分や功徳の多寡を問わない。そう説く信仰には、味方の遺体と敵の遺体を分け隔てる理由がなかった。
供養塔にはもう一つの呼び名がある。怨親平等の碑である。「怨親平等」は、恨む相手と親しい相手を等しく扱うという仏教の考え方を指す。互いを滅ぼそうとした二つの軍の死者に、その言葉がそのまま当てはめられた。
文化庁は、この石塔を同種の供養塔のなかでも古い例の一つとして記録している。同じ理念を示す塔や碑は各地にあるが、これほど早い時期のものは少ない。指定は、祭祀信仰に関する遺跡という基準に基づく。価値は造形の巧みさよりも、勝敗の論理ではなく弔いを選んだ人々の判断が、石として残っている点にある。
石塔を見る
供養塔は石塔婆、すなわち石造の塔である。段を重ねたり像を刻んだりせず、素朴な方柱として立つ。中央よりやや上のところで一度折れており、その折損の跡は今も見てとれる。現在の塔は、その折れた石を継いで立て直したものである。磨き上げられていない素朴なつくりが、かえってこの石にふさわしい。
正面には「南無阿弥陀仏」の文字が大きく刻まれ、その下に造立の由来を記した銘文が続く。風化が進み、銘文をすべて読み取るのは難しい。それでも、乱のこと、敵味方双方の死者のこと、供養の意図という内容が、史跡指定の根拠となっている。
場所は境内の東門を入ってすぐ、坂側から入ると左手にあたる。拝観料はかからず、石塔は屋外に置かれていて間近で見ることができる。かたわらには由来を記した説明板が立つ。
遊行寺とその周辺
遊行寺は、ゆっくり歩きたい寺である。参道は旧東海道から登っていき、門前の坂は遊行寺坂と呼ばれる。毎年1月の箱根駅伝の経路にあたるため、この坂の名を知る人は多い。
境内には大きな銀杏の木があり、晩秋には鮮やかに黄葉する。本堂は神奈川県内でも規模の大きな仏堂の一つである。錫杖を手にした一遍上人の銅像が、時宗の出発点を示している。宝物館では、時宗や遊行上人にかかわる絵巻や古文書を、わずかな拝観料で見ることができる。
境内を少し歩くと長生院がある。小栗判官と照手姫の伝説にゆかりのある塔頭で、語り物や芝居に長く語り継がれてきたこの悲恋の物語に結びつく墓がここに残る。
寺の門は、かつての藤沢宿の方を向いて開いている。藤沢宿は江戸と京都を結ぶ東海道の宿場町だった。藤沢は湘南海岸への入口でもあり、江の島の神社や海辺へは電車でわずかな距離である。
Q&A
- 「敵御方供養塔」とはどういう意味ですか。
- 「敵御方」は敵と味方の双方を指します。上杉禅秀の乱で命を落とした両軍の死者を、区別なく弔うために建てられた供養塔です。
- 供養塔は自由に見られますか。
- はい。遊行寺の境内、東門を入ってすぐの場所にあり、見学に料金はかかりません。絵巻などを収める宝物館は別で、拝観料が必要です。
- 建立年が資料によって違うのはなぜですか。
- 寺と市の記録は、乱の三回忌にあたる応永25年(1418年)としています。一方、大正15年の史跡指定時の解説文は、銘文の年号を応永33年(1426年)と読んでいます。この相違は未解決ですが、いずれも15世紀前半の建立である点は一致します。
- 時宗とはどのような宗派ですか。
- 鎌倉時代に一遍が開いた浄土系の宗派で、念仏を称えることを中心とします。供養塔の立つ遊行寺(清浄光寺)はその総本山です。
- 遊行寺へのアクセスは。
- 神奈川県藤沢市にあり、JR・小田急線の藤沢駅から北へ徒歩10〜15分ほどです。
基本データ
| 名称 | 藤沢敵御方供養塔(ふじさわてきみかたくようとう) |
|---|---|
| 所在地 | 神奈川県藤沢市西富(清浄光寺〈遊行寺〉境内) |
| 指定区分 | 国指定史跡 |
| 指定年月日 | 大正15年(1926年)10月20日 |
| 指定基準 | 社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 |
| 時代 | 室町時代 応永25年(1418年)建立(寺・市の記録による) |
| 形状 | 方柱形の石塔婆(中央よりやや上部で折損) |
| 造立の機縁 | 上杉禅秀の乱(1416〜1417年)の戦死者供養 |
| アクセス | 藤沢駅(JR・小田急線)から徒歩約10〜15分 |
| 拝観 | 境内自由(供養塔の見学は無料) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁) 藤沢敵御方供養塔
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/776
- 時宗総本山 遊行寺 敵御方供養塔
- https://www.jishu.or.jp/yugyouji-keidai/tekimikatakuyoutou/
- 藤沢市観光公式ホームページ 藤沢敵御方供養塔
- https://www.fujisawa-kanko.jp/spot/fujisawa/18.html
- 清浄光寺 ウィキペディア
- https://ja.wikipedia.org/wiki/清浄光寺
最終更新日: 2026.05.25