中の峠隧道:一人の男が掘り始めた、全長327メートルの奇跡の水路トンネル
広島県東広島市西条町の南部、西条盆地の縁に広がる柏原(かしょうばら)地区の山中に、静かにたたずむ一本のトンネルがあります。中の峠隧道(なかのたおずいどう)――全長327メートルに及ぶこの農業用水路トンネルは、1926年の大干ばつをきっかけに、地元の沖田嘉市(おきたかいち)がたった一人で槌と鑿を手に岩山を掘り始め、やがて村人たちの協力を得て1930年に完成させたものです。2000年に国の登録有形文化財に登録されたこの隧道は、今なお現役の灌漑施設として地域の農地を潤し続けています。人間の意志と地域の絆が生んだこの土木遺産は、訪れる人の心に深い感動を与えてくれます。
歴史的背景:干害に苦しんだ柏原地区
柏原地区の歴史は江戸時代後期にさかのぼります。文化年間(1804〜1818年)頃、広島藩の指導のもとで大規模な開墾が行われ、約50ヘクタールの水田が造成されました。その水源として谷をせき止めて築かれたのが深道池(ふかどういけ、旧称・中の峠池)で、貯水量は約16万トンに達する大きなため池でした。
しかし、深道池には致命的な弱点がありました。集水面積が狭く、一度干上がると満水になるまでに数年を要したのです。約70戸の農家が暮らす柏原地区の人々は、長い間干害に悩まされ続けました。とりわけ深刻だったのが昭和元年(1926年)の大干ばつで、翌年以降にかけて35町歩(約35ヘクタール)もの水田で稲が枯死して収穫皆無となり、残りの田でも半作以下という壊滅的な被害を受けました。
沖田嘉市:山を穿った男の物語
沖田嘉市(1873〜1939年)は、柏原地区に暮らす温厚篤実な人物として知られていました。若い頃にはアメリカに渡り、工事の技術を学んだ経験も持っていました。
1926年の大干ばつに直面した沖田は、一つの大胆な計画を思い立ちます。柏原地区と東側の小田山川(こだやまがわ)の間にそびえる岩山にトンネルを掘り、延長約1.5キロメートルの水路を通して深道池に送水するというものでした。最大の難関は、中の峠の下を貫く約327メートルの隧道掘削でした。
昭和2年(1927年)3月25日、沖田は単身で工事に着手しました。現場近くに九尺二間(約2.7m×3.6m)の仮小屋を建て、家族から毎日一升の米の提供を受けながら自炊生活を送り、槌と鑿だけを頼りに念仏を唱えながら岩を穿ち続けました。一人での作業は遅々として進みませんでしたが、沖田はひたすら掘り続けました。
当初、村人たちは協力的ではありませんでした。しかし、来る日も来る日も黙々と岩山に向かう沖田の姿に心を打たれ、次第に手伝う人が増えていきました。昭和4年(1929年)からは多くの村人が工事に加わり、総工費2,700円を投じて、昭和5年(1930年)8月15日、ついに隧道は完成しました。
登録有形文化財としての価値
中の峠隧道は、平成12年(2000年)4月28日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。その登録理由には、建築技術史上の先駆性と、地域の土木遺産としての歴史的価値が挙げられています。
隧道の南側坑口には、径間長約0.7メートルの鉄筋コンクリート造欠円アーチが設けられています。当時のトンネル坑口は石積みやレンガ積みで造るのが一般的でしたが、沖田は戦後になってようやく普及するコンクリート工法をいち早く採用しました。アメリカでの土木技術の知見が活かされたとも考えられ、意匠的にも珍しいものとして高く評価されています。
また、昭和18年(1943年)には落盤防止のため、南坑口に長さ約3.8メートルの鉄筋コンクリート造箱形坑道が延長されました。完成した隧道は全長327メートル、幅員0.9メートル、高さ1〜1.2メートルの素掘りトンネルです。
見どころ・魅力
中の峠隧道を訪れると、まず目に入るのが南側坑口のコンクリート造アーチです。周囲を緑に覆われた山肌から静かに口を開くその姿は、約一世紀前の一人の男の決意を今に伝えています。坑口からは今も水が絶え間なく流れ出ており、この隧道が現役の灌漑施設であることを実感できます。
坑口付近には東広島市教育委員会が設置した案内板があり、沖田嘉市と隧道建設の経緯が詳しく記されています。周辺には里山の穏やかな風景が広がり、深道池へと続く水路や管理用の山道を歩くこともできます。深道池では、隧道から流れ込む水を実際に確認することができます。
また、西条町郷曽の稲生神社(いなりじんじゃ)境内には、昭和25年(1950年)に建立された「沖田嘉市翁之碑」があり、碑文には隧道掘削の詳細な経緯が漢文調で刻まれています。地域の人々がいかにこの偉業を大切にしてきたかが伝わる場所です。
柏原水利組合によって年1回の隧道内清掃と年2回の管理用道路の草刈りが行われており、地域資源として丁寧に保全管理されていることも特筆に値します。
周辺情報:酒都・西条と東広島の魅力
中の峠隧道がある東広島市西条は、兵庫県の灘、京都府の伏見と並ぶ「日本三大銘醸地」の一つとして知られる酒どころです。JR西条駅周辺には7社の酒蔵が軒を連ね、赤レンガの煙突と白壁・なまこ壁が織りなす独特の町並みが「西条酒蔵通り」として人気の観光スポットになっています。多くの蔵元で試飲や見学が可能で、毎年10月に開催される「酒まつり」には全国から20万人以上が訪れます。
その他の周辺観光スポットとしては、桜と紅葉の名所である鏡山公園、国の史跡に指定されている安芸国分寺跡、古代の前方後円墳である三ツ城古墳などがあります。広島市中心部へはJR山陽本線で西条駅から約35分とアクセスも良好です。
Q&A
- 隧道の中に入ることはできますか?
- 隧道は現役の農業用水路施設であり、幅約0.9メートル、高さ1〜1.2メートルと非常に狭いため、内部に立ち入ることはできません。南側坑口のコンクリート造アーチや周辺の水路を外から見学する形となります。
- 見学に料金はかかりますか?
- 料金はかかりません。隧道は山中の開放された場所にあり、自由に見学できます。ただし、周辺は農地や私有地を含むため、マナーを守った見学をお願いいたします。
- アクセス方法を教えてください。
- JR山陽本線・西条駅から車で約15〜20分です。公共交通機関での直接のアクセスは困難なため、車での訪問をおすすめします。主要道路から外れると案内標識が少なくなるため、カーナビやスマートフォンの地図アプリのご利用をおすすめします。
- おすすめの訪問時期はいつですか?
- 通年見学可能ですが、春や秋が特に快適です。田植えの時期(5月頃)から稲刈り(9月頃)にかけては、周辺の水田に水が張られ美しい農村風景を楽しめます。夏場は管理用道路の草が茂ることがあるため、涼しい時期の方がアクセスしやすい場合があります。
- 周辺に飲食店やトイレはありますか?
- 隧道周辺は山間部のため、飲食店やトイレなどの施設はありません。訪問前にJR西条駅周辺や国道沿いの施設で準備されることをおすすめします。飲み物や軽食の持参もお忘れなく。
基本情報
| 名称 | 中の峠隧道(なかのたおずいどう) |
|---|---|
| 文化財指定 | 国登録有形文化財(建造物)/平成12年(2000年)4月28日登録 |
| 所在地 | 広島県東広島市西条町郷曽字柏原中の峠 |
| 所有・管理 | 柏原水利組合 |
| 設計・施工 | 沖田嘉市(おきたかいち、1873〜1939年) |
| 建設期間 | 昭和2年(1927年)3月〜昭和5年(1930年)8月15日 |
| 構造 | 鉄筋コンクリート造アーチ坑口、素掘りトンネル/全長327m、幅員0.9m、高さ1〜1.2m |
| 改修 | 昭和18年(1943年):南坑口にRC造箱形坑道(約3.8m)を延長(落盤防止) |
| 用途 | 農業用灌漑水路(小田山川から深道池への導水、深道池貯水量約16万トン) |
| アクセス | JR山陽本線・西条駅より車で約15〜20分 |
| 見学料 | 無料(屋外の開放施設、特別な設備なし) |
参考文献
- 中の峠隧道 — 文化遺産オンライン
- https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/177866
- 中の峠隧道 — 東広島市観光協会
- https://hh-kanko.ne.jp/sightseeing/275/
- 中の峠隧道 — Wikipedia
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%81%AE%E5%B3%A0%E9%9A%A7%E9%81%93
- 中の峠隧道 — 農林水産省 疏水名鑑
- https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_bunka/yuukei12/
- 中の峠隧道 — 広島県観光サイト Dive! Hiroshima
- https://dive-hiroshima.com/explore/1689/
- 地域の水不足を解消するため一人でトンネルの掘削に取り掛かり中の峠隧道を完成させた沖田嘉市【東広島史】 — 東広島デジタル
- https://www.higashihiroshima-digital.com/report/special-250327/
- 「中の垰隧道」と沖田嘉一について — レファレンス協同データベース(国立国会図書館)
- https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000241288&page=ref_view
最終更新日: 2026.03.06