護國寺清正公堂とは
護國寺清正公堂は、山口県下関市上田中町にある明治30年(1897年)の日蓮宗寺院の小堂で、平成25年(2013年)12月24日に国の登録有形文化財(建造物)となった(文化庁)。読みは「ごこくじせいしょうこうどう」。
文化庁の記録では、木造平屋建、瓦葺で、建築面積24平方メートル。登録番号は35-0074である。
清正公(せいしょうこう)は、戦国武将の加藤清正を敬って呼ぶ名である。法華経の篤い信者として知られた清正は、没後まもなく熊本で願いをかなえる神「清正公」として崇められ、日蓮宗でも菩提寺の本妙寺を中心に信仰が盛んになって、やがて全国へ広がった(池上本門寺)。護國寺清正公堂は、その清正の像を祀る堂である。
外陣と内陣、5つに区切った須弥壇
護國寺清正公堂は、本堂の南に東を向いて建つ(文化庁)。入母屋造・桟瓦葺の外陣の奥に、切妻造の内陣を突き出した形をとる。外陣のまわりには濡縁を廻らせ、正面には切妻の向拝を付ける。
内陣と外陣の境は床を一段上げて結界とし、最奥の須弥壇を5つに区切って、中央に加藤清正の像を祀る。外まわりは和様でまとめ、須弥壇のまわりには禅宗様の意匠を取り入れている(文化庁)。
登録有形文化財としての価値
文化庁は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として、平成25年(2013年)12月24日に護國寺清正公堂を登録した。建築面積24平方メートルの小さな堂ながら、外まわりは和様、須弥壇まわりは禅宗様と、場所によって様式を使い分けている点を文化庁の解説は挙げている。
中津城から迎えた清正像
寺の沿革によれば、護國寺清正公堂に祀られる加藤清正の木像は、もと豊前国の中津城内に安置されていた。廃藩のころ、開基の日成が松平家に願い出て譲り受け、護國寺へ迎えたという。寺はこの像を寺宝のなかでもとりわけ大切なものとしている(護國寺)。
現在の堂は、第4世吉田日昌上人の在任中に建てられた。建築年を文化庁は明治30年(1897年)とし、寺の沿革は明治31年(1898年)4月の建立と記している。
見どころ
正面に張り出す切妻の向拝と、外陣を囲む濡縁が、小さな堂に奥行を与えている。横から眺めると、手前の入母屋屋根と奥に突き出した内陣の切妻屋根とで、屋根の形が前後で変わるのが分かる(文化庁)。
護國寺清正公堂は本堂のすぐ南にあり、昭和4年(1929年)の本堂より30年あまり古い。2棟を見比べると、明治の小堂と昭和初期の本堂の違いがよく分かる。
見学について
護國寺清正公堂の内部は、内外陣の境に結界を設けた祈りの場である。堂内の拝観や撮影について寺の公式な案内は確認できなかったので、清正像を拝したい場合は寺に問い合わせたい。境内への行き方は護國寺(下関市)のページにまとめてある。
Q&A
- 護國寺清正公堂には何が祀られていますか?
- 加藤清正の像です。須弥壇を5つに区切った中央に祀られています(文化庁)。
- 護國寺清正公堂はいつ建てられましたか?
- 文化庁は明治30年(1897年)、寺の沿革は明治31年(1898年)4月としています。
- 護國寺清正公堂の清正像はどこから来たのですか?
- 寺の沿革によれば、もと豊前国の中津城内にあった木像を、開基の日成が松平家から譲り受けたものです(護國寺)。
- 護國寺清正公堂の「清正公」は何と読みますか?
- 「せいしょうこう」と読み、加藤清正を敬った呼び名です。堂の名は「ごこくじせいしょうこうどう」と読みます(文化庁)。
- 護國寺清正公堂が登録有形文化財になったのはいつですか?
- 平成25年(2013年)12月24日です(文化庁)。
基本情報
| 名称 | 護國寺清正公堂(ごこくじせいしょうこうどう) |
|---|---|
| 所在地 | 山口県下関市上田中町2-15-7 |
| 指定区分 | 登録有形文化財(建造物) |
| 指定年 | 平成25年(2013年)12月24日登録 |
| 員数 | 1棟 |
| 寸法 | 木造平屋建、瓦葺、建築面積24㎡ |
| 所有者 | 宗教法人護國寺 |
| 公開状況 | 堂内公開の公式案内なし |
参考文献
- 護國寺清正公堂(国指定文化財等データベース)
- https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00009830
- 護國寺清正公堂(文化遺産オンライン)
- https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/285669
- 佛乘山護國寺の沿革(護國寺)
- https://krmt.biz/gokokuji/enkaku.html
- 特集展示「清正公信仰と本門寺」(池上本門寺)
- https://honmonji.jp/news/img/seishoko.pdf
最終更新日: 2026.11.08