三木屋東館 ― 文豪・志賀直哉が愛した、城崎温泉の創業三百年の木造旅館

兵庫県豊岡市・城崎温泉の中心に、しっとりとした趣をたたえる木造三階建ての旅館建築があります。国の登録有形文化財「三木屋東館」は、小説家・志賀直哉が名作短編「城の崎にて」を執筆したことで知られ、創業から三百年を越える歴史を現代に伝える貴重な建物です。石畳の道から一歩敷地に足を踏み入れると、そこには昭和初期の木造和風旅館が守り育ててきた静けさと、三百坪に及ぶ日本庭園の気配が広がります。

城崎温泉の中心に佇む、端正な木造三階建

三木屋東館は、城崎温泉のほぼ中央に所在する温泉旅館建築です。寄棟造・桟瓦葺の屋根を戴く木造三階建で、各階ともほぼ同じ広さの矩形平面を重ねています。北面に玄関を附属し、南側は広々とした庭園に向かって開かれています。一階はロビーと宴会場、二階は客室、三階は大宴会場として用いられ、三階の天井には舟底天井が伸びやかに架けられています。無駄を削ぎ落とした端正な意匠の木造和風旅館であり、昭和初期の温泉街に花開いた旅館建築の典型を、今日に伝えています。

落城の記憶から始まった、三木屋の三百年

三木屋の歴史は、現在の兵庫県三木市にあった三木城にまで遡ると伝えられます。一四九二年に初代城主・別所則治によって築かれた三木城は、一五八〇年、豊臣秀吉による兵糧攻め「三木の干し殺し」ののち落城します。五代城主の別所長治は、城兵の命を助けることを条件に妻子兄弟とともに自害したと伝わり、その辞世の歌碑は今も三木城跡(上の丸公園)に残されています。落ち延びた城兵の子孫が北へと移り住み、城崎の地に落ち着いたのち、元禄年間(一六八八~一七〇四年)に旅館を営み始め、みずからの出自である三木の城と城主を偲んで「三木屋」と名づけたのが始まりとされています。現在の主人は、その流れを継ぐ十代目にあたります。

明治・大正・昭和を通じて、三木屋は多くの文化人を迎えてきました。「城の崎にて」の著者・志賀直哉をはじめとする白樺派の面々、民俗学者の柳田國男、画家の山下清や小磯良平など、時代を彩る人々がこの宿の敷居をまたぎました。現在の建物にも、その逗留の気配が静かに息づいています。

志賀直哉と「城の崎にて」が生まれた宿

大正二年(一九一三年)、三十歳の志賀直哉は山手線に轢かれて大怪我を負い、その養生のために城崎温泉を訪れました。三木屋に約三週間逗留するあいだ、彼は目の当たりにした蜂・鼠・蠑螈(いもり)の三つの生きものの死と、自身の九死に一生を得た経験とを重ね合わせ、短編「城の崎にて」を書き上げました。国語教科書にも収められ、私小説の到達点のひとつとして今なお読み継がれる名作は、この宿の部屋から生まれたのです。

志賀はその後も三木屋を定宿とし、執筆のためにひとりで訪れるほか、白樺派の友人や家族とともに、さまざまな形でこの地を訪れました。長編「暗夜行路」には、三木屋の三百坪の庭園がそのままの姿で描かれています。愛用したとされる二十六号室や、宿の主人に宛てた直筆の葉書なども館内に大切に伝えられ、宿泊客に限り、空室の際には二十六号室を静かに見学することができます。

なぜ登録有形文化財に登録されたのか

三木屋東館は、平成二十六年(二〇一四年)十月七日に、文化庁の登録有形文化財(建造物)に登録されました。その価値は、大きく四つの側面から語ることができます。第一に建築的な価値として、昭和前期の温泉街を代表する木造三階建旅館の姿を、端正な意匠のまま今日まで伝えていること。第二に技術的な価値として、三階大宴会場に架かる舟底天井に見られるように、伝統的な大工技術が近代の旅館建築に応用されている点。第三に歴史的な価値として、大正十四年(一九二五年)の北但大震災で壊滅的な被害を受けた城崎温泉の復興を、その後の町並み形成とともに今に伝える生きた証であること。そして第四に文化的な価値として、志賀直哉をはじめ多くの文人墨客を迎え、日本近代文学の舞台ともなってきた来歴です。

現在の建物は昭和二年(一九二七年)に再建されたもので、その後も昭和二十一年(一九四六年)から昭和四十年(一九六五年)にかけて、また昭和四十七年(一九七二年)にも改修が重ねられています。同じく登録有形文化財である「三木屋西館」と並ぶ三木屋東館は、城崎温泉中心部に残る昭和前期旅館建築群の核を成す存在といえます。

見どころ

木造三階建の端正な外観

玄関のある東館は、現在ではきわめて希少な木造三階建です。表通りから見上げる桟瓦葺の屋根や連続する格子の表情は、それだけで一幅の絵のよう。夕刻、軒に灯りが入り、浴衣姿の宿泊客が外湯めぐりに出てゆく頃には、城崎温泉でもっとも印象深い風景のひとつとなります。

三百坪の日本庭園

ロビーの奥に広がるのは、およそ三百坪の日本庭園です。池には鯉が泳ぎ、石と苔が季節ごとに表情を変えます。二〇一三年の大規模リニューアルの際に新設された月見台からは、夜空の月を望むこともできます。志賀直哉が長編「暗夜行路」に描いたとされる庭は、今もなおほぼ当時のままの佇まいを保ち、夜にはライトアップが施され、静かな幻想の時間を演出します。

ライブラリーと文学の余韻

かつての逗留者のように、時間を忘れて読書に耽ることのできるライブラリーが館内に設けられています。蔵書はブックディレクターの幅允孝氏の選書によるもので、「本を読みたくなる本棚」をテーマに構成されています。志賀直哉がこの宿で実践した、ゆっくりとした思索の時間を、現代の旅人がふたたび体験できる場といえるでしょう。

志賀直哉ゆかりの二十六号室

志賀がもっとも好んで逗留したと伝わる二階の二十六号室は、庭に面した落ち着いた和室です。「自分の部屋は二階で、隣のない、割に静かな座敷だった」と「城の崎にて」に記された通りの、静けさの残る一室。宿泊中であって他に利用者がいない場合、宿泊客のみ見学が可能です。

城崎温泉とあわせて楽しむ

三木屋東館は、城崎温泉という温泉街全体の物語の一章としてこそ、その魅力を発揮します。城崎温泉は、コウノトリが傷を癒した姿から湯が発見されたという伝承をもち、平安時代以降、古今和歌集などにその名を残してきました。今日も続く「外湯めぐり」の文化は、この地ならではの楽しみです。

柳の並ぶ大谿川沿いに点在する七つの外湯は、それぞれに異なる由緒とご利益をもち、宿泊客には「ゆめぱ」と呼ばれる入浴パスが手渡されます。浴衣と下駄の音を響かせながら湯から湯へと歩く時間は、城崎ならではの贅沢です。徒歩圏内には、温泉街の鎮守ともいえる温泉寺や、山上の展望所へと向かう城崎温泉ロープウェイがあり、日本海を望む眺望を楽しめます。冬には但馬牛や松葉がにといった土地の味覚が、旅館の会席にも並びます。

訪問にあたって

三木屋は現役の旅館として営業しており、館内や庭園は基本的に宿泊客のためのものです。外観は公道から敬意をもって眺めることができますが、予約なしに敷地内へ立ち入ることは控えてください。アクセスは、JR城崎温泉駅から徒歩およそ十三~十五分、播但自動車道和田山ICから車でおよそ六十分。午後には駅前から無料の旅館案内バスも運行しています。木造建築の静けさを守るため、お子様の宿泊は小学生以上を対象としています。外観の撮影は自由ですが、館内の撮影については宿のご案内に従ってください。

Q&A

Q宿泊せずに三木屋東館を見学することはできますか。
A三木屋は現役の旅館であるため、館内や庭園、志賀直哉ゆかりの客室などの見学は、基本的にご予約のうえで宿泊されたお客様向けのご案内となります。木造三階建の外観は公道からご覧いただけますので、温泉街の散策の折にその風情をお楽しみください。
Q志賀直哉との関わりはどのようなものですか。
A志賀直哉は大正二年、三十歳のときに山手線の事故で負った怪我の養生のために城崎温泉を訪れ、三木屋へ約三週間逗留しました。その間に執筆されたのが名作「城の崎にて」です。以降も長年にわたり定宿とし、愛用した二十六号室や主人宛ての直筆葉書などが今も大切に伝えられています。
Q現在の建物はいつ建てられたものですか。
A現在の東館は、大正十四年(一九二五年)の北但大震災で倒壊した旧館を再建したもので、昭和二年(一九二七年)の竣工です。その後も昭和二十一年から昭和四十年にかけて、また昭和四十七年に改修が行われました。平成二十六年(二〇一四年)十月七日に国の登録有形文化財に登録されています。
Q館内にエレベーターはありますか。
A木造建築の佇まいを守るため、エレベーターは設けられていません。階段の上り下りを避けたいお客様向けに一階の客室もご用意されていますので、宿へ直接ご相談ください。木造ゆえに上下階の物音などが伝わりやすいことも、この旅館ならではの味わいとしてご理解ください。
Q三木屋と合わせて楽しめる城崎の見どころは何ですか。
A大谿川沿いに点在する七つの外湯めぐりは欠かせない体験で、三木屋ご宿泊のお客様には「ゆめぱ」と呼ばれる入浴パスが手渡されます。徒歩圏内には温泉街の守護である温泉寺、山上の展望台へと続く城崎温泉ロープウェイもあり、日本海を望む景色をお楽しみいただけます。

基本情報

名称 三木屋東館(みきやひがしかん)
文化財種別 登録有形文化財(建造物)/文化庁
登録年月日 平成二十六年(二〇一四年)十月七日
建築年代 昭和二年(一九二七年)/昭和二十一~四十年および昭和四十七年改修
構造・規模 木造三階建、瓦葺、寄棟造桟瓦葺、建築面積三四八平方メートル
棟数 一棟
所在地 兵庫県豊岡市城崎町湯島字御所四八七
アクセス JR城崎温泉駅より徒歩約十三~十五分/播但自動車道・和田山ICより車で約六十分
創業 元禄年間(一六八八~一七〇四年)、現当主で十代目

参考文献

文化遺産オンライン 三木屋東館(文化庁)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/234331
国指定文化財等データベース 三木屋東館(文化庁)
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/101/00010218
城崎温泉 三木屋 公式サイト 三木屋について
https://kinosaki-mikiya.jp/about/

最終更新日: 2026.04.23