名古屋の南に残る、桶狭間前夜の戦場
永禄3年(1560年)5月19日の早朝、大高の集落を見下ろす二つの丘の砦が攻め落とされ、火に包まれた。その数時間後、東へわずかに離れた地で、駿河の大名・今川義元が織田信長の小勢に討たれる。世にいう桶狭間の戦いである。現在は名古屋市の南端に組み込まれた静かな丘陵が、この合戦の口火を切った場所であった。
史跡の正式名称は「大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡」という。城跡と二つの砦跡が一括して、昭和13年(1938年)12月14日に国の史跡に指定された。所在は知多半島丘陵部の最北端にあたり、伊勢湾の海岸線が今よりずっと内陸まで入り込んでいた当時にあって、軍事上の要所であった。
大高城そのものは大きな城ではない。規模は東西約106メートル、南北約32メートルほどで、周囲を二重の堀がめぐっていた。永正年間(1504〜21年)に花井備中守が築いたとされ、のちに水野氏が城主となった。永禄年間に入ると、東の駿河を本拠とする今川氏の支配下に置かれ、尾張をめぐる織田氏との抗争のなかで、今川方の最前線の拠点となっていく。
城と砦が一括指定された理由
城跡一つと砦跡二つが、なぜ一件の史跡として扱われるのか。それは三者が一つの軍事情勢のなかで結びついていたからである。大高城は織田領のただ中に取り残された今川方の拠点であった。これを孤立させるため、織田信長は城を取り囲むように付城を築き、近隣の鳴海城と大高城を結ぶ補給路を断とうとした。東に丸根砦、北東に鷲津砦が置かれ、ほかの小砦が西と南をふさいだ。
つまり城とそれを囲む砦は、同じ戦局の表裏をなしている。文化庁が丸根・鷲津の両砦を独立した物件ではなく、大高城跡の「附(つけたり)」として扱うのはこのためである。指定基準は「都城跡、城跡、戦跡その他政治に関する遺跡」に置かれている。評価の根拠は建築の遺存ではなく、これらの土の遺構が、ある決定的な一日に果たした役割にある。
その一日とは、永禄3年(1560年)5月19日のことである。前夜の5月18日、今川方として従軍していた19歳の若武者が、織田方の包囲の隙を縫って、囲まれた大高城へ兵糧を運び入れた。当時の名を松平元康という。のちに徳川家康として天下を統一し、250年以上にわたって続く江戸幕府を開く人物である。「大高城兵糧入れ」として記憶されるこの働きは、戦国期を代表する武将の、若き日の試金石であった。
翌朝、今川勢は付城に襲いかかる。丸根・鷲津の両砦はいずれも激戦の末に陥落し、丸根を守った佐久間盛重は討死した。砦を攻めた将については古記録と後世の記述で食い違いがあり、どの将がどちらを攻めたかは一定しない。ただ結果に疑いはない。砦は落ち、今川勢は尾張への道が開けたとみたが、その数時間後には義元自身が討たれ、戦局は逆転する。役割を失った大高城は、まもなく廃城となった。
いま現地で目にできるもの
石垣や天守を期待して訪れると肩透かしを食う。残っているのは土地の形そのものである。空堀の切れ込み、本丸・二之丸の高まり、かつて水をたたえていた場所を横切る土橋。これらを読み解くには多少の想像力がいるが、その読み解きにこそ面白さがある。
まずは旧城域にあたる大高城跡公園から歩きたい。本丸跡には「史跡大高城趾」と刻んだ標柱が立ち、その西隣には小さな八幡社の社殿がある。二之丸からは本丸を見渡すことができ、地面が一段高まり、また落ち込んでいく起伏をたどれる。足元の平らな芝地のなかには、城が機能していた頃に堀であった部分も含まれる。名古屋市教育委員会は令和元年(2019年)以降、地中レーダー探査を行い、地下に埋もれた構造の把握を進めている。
二つの砦はいずれも徒歩圏にあり、周囲の住宅地から盛り上がった木立の丘の上に位置する。鷲津砦は現在は小さな公園となり、位置を示す石碑が置かれている。南へ約800メートルの丸根砦の頂には、守って死んだ人々を悼む碑が立つ。実際に巡った人の助言として、砦に登る前にまず大高城へ行き、城から砦の方角を見ておくとよい。砦の頂は木々にさえぎられて遠望がきかず、包囲の地理は丘の上よりも下から見たほうがつかみやすいからである。
アクセスと周辺
訪ねるなら鉄道が分かりやすい。JR東海道本線の大高駅から城跡公園までは徒歩でおよそ12〜15分。電柱に取り付けられた案内表示が、住宅地の路地を抜ける道筋を導いてくれる。三か所はいずれも徒歩でつなげられ、半日ほどで一巡するのが、歴史に関心のある来訪者の定番の歩き方である。
車での来訪は思いのほか難しい。城跡に駐車場はなく、すぐ周りの道は車を寄せにくいほど狭いため、地元では車での接近を勧めない。少し離れた大高緑地の駐車場にとめて歩く人が多い。一帯は住宅地で、史跡のすぐそばに飲食店や売店は少ない。飲み物は持参したい。夏場は木立の砦の丘に蚊が多い点にも注意したい。
あわせて一日を過ごすなら、大高緑地は林間の散策路や家族向けの施設を備えた広い公園である。東側に広がる桶狭間の古戦場一帯には、合戦にちなむ碑や小さな資料施設が点在している。これらと組み合わせれば、大高城跡はあの朝の出来事をたどる長い行程の、自然な出発点となる。
Q&A
- 何か見るものはありますか。ただの空き地ですか。
- 建物や石垣はありませんが、土の遺構は確かに残っています。空堀の筋、本丸・二之丸の高まり、土橋の痕跡、三か所それぞれの石碑などです。記念物の撮影よりも、地形と歴史を読み解くことを楽しむ方に向いています。
- 「大高城兵糧入れ」とは何ですか。
- 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前夜、のちの徳川家康にあたる若き松平元康が、織田方の包囲線を抜けて大高城に兵糧を運び入れた働きを指します。天下を統一する人物の、若き日の事績として記憶されています。
- 城跡と二つの砦を一度に回れますか。
- 回れます。三か所は互いに徒歩圏で、JR大高駅からも歩いて行けます。半日ほどの一巡にまとめるのが一般的です。先に大高城を見ておくと、砦がどのように城を取り囲んでいたか理解しやすくなります。
- 行き方は。駐車場はありますか。
- 最寄りはJR大高駅で、城跡まで徒歩約12〜15分、道中に案内表示があります。史跡に駐車場はなく周辺の道も狭いため、鉄道が無難です。車の場合は少し離れた大高緑地の駐車場を利用する人が多いです。
- 訪れるのに適した時期はいつですか。
- 公園は通年開放で、入場は無料です。歩いて巡るなら春と秋が快適です。夏は砦の丘が蒸し暑く蚊も多いので、虫除けと飲み物を持参すると安心です。
基本情報
| 名称 | 大高城跡 附 丸根砦跡 鷲津砦跡(おおたかじょうあと) |
|---|---|
| 所在地 | 愛知県名古屋市緑区大高町 |
| 指定区分 | 国指定史跡(昭和13年〔1938年〕12月14日指定) |
| 指定基準 | 都城跡、城跡、戦跡その他政治に関する遺跡 |
| 構成 | 大高城跡、附として丸根砦跡・鷲津砦跡 |
| 城の規模 | 東西約106メートル、南北約32メートル、二重の堀 |
| 築城 | 永正年間(1504〜21年)に花井備中守。のち水野氏、さらに今川氏の支配下に |
| アクセス | JR東海道本線「大高駅」から徒歩約12〜15分 |
| 公開状況 | 無料・常時開放の公園(大高城跡公園、鷲津砦公園) |
参考文献
- 国指定文化財等データベース(文化庁)大高城跡
- https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/1436
- 名古屋市公式ウェブサイト 大高城跡
- https://www.city.nagoya.jp/kyoiku/page/0000143996.html
- あいち歴史観光(愛知県)大高城跡
- https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place3.html
- 名古屋コンシェルジュ(名古屋市公式観光情報)大高城と桶狭間の砦
- https://www.nagoya-info.jp/tour/detail/168/
- 大高緑地(愛知県)アクセス・駐車場案内
- https://www.aichi-koen.com/odaka/odaka-access/
最終更新日: 2026.06.14