和歌山県の登録有形文化財
和歌山県 · 登録有形文化財
旧上秋津小学校校舎(秋津野ガルテン)は和歌山県田辺市上秋津にある昭和28年(1953年)の木造2階建の校舎で、登録有形文化財。農村の長大な木造校舎で、2階から背面の丘への避難路や防火扉など防災を重視したつくりをもつ。
旧神田家別邸(稲村亭)は和歌山県東牟婁郡串本町串本にある明治7年(1874年)の木造平屋建の商家の別邸で、登録有形文化財。農家型の平面に大屋根を載せ、海岸に流れ着いた巨木と伝わる柾目の杉材で端正に造作する。
旧国鉄紀勢西線紀伊湯浅駅本屋は和歌山県有田郡湯浅町湯浅にある昭和2年(1927年)の木造平屋建の旧駅舎で、登録有形文化財。半切妻造の鉄板菱葺に切妻造の車寄を付けた洋風の駅舎で、戦前期の駅舎建築の様相を伝える。
紀の川市の県立粉河高等学校構内に建つ旧制粉河高等女学校同窓会館の和館は、昭和9年築の木造平屋建。宝形造スレート葺、建築面積131平方メートル。欄間を多用した続き間座敷で、生徒が泊まり込む家事の実習が行われた。令和5年登録。
和歌山市の桐蔭高校に残る大正11年築のコンクリート観覧席。全国中等学校優勝野球大会の連覇を受けた県市と有志の寄付金で建ち、丘陵斜面をそのまま全長156メートルの客席に変えた。皇太子が初めて野球を観戦した場所でもある。
和歌山市の桐蔭高校に建つ昭和4年築の旧図書館。開校50周年を機に保護者会が寄贈した鉄筋コンクリート造平屋建で、太い円柱の玄関ポーチ、モルタル塗の旧制中学校章、「中」の字を組んだ床下換気グリルが見どころ。
旧チャップマン邸石段及び石垣は和歌山県新宮市丹鶴の旧チャップマン邸の敷地の南東面を区切る大正15年(1926年)ごろの石垣と石段で、登録有形文化財。花崗斑岩の間知石を谷積に築き、井戸の石室を設け、野面石を敷いた石段に石張の門柱を立てる。
旧チャップマン邸主屋は和歌山県新宮市丹鶴に建つ大正15年(1926年)の木造2階建の宣教師館で、登録有形文化財。西村伊作の設計で、南面に張り出した切妻と半八角形の出窓をもつ変化に富んだ外観をつくる。現在は観光交流施設として使われている。
旧戸田家住宅網工場は和歌山県広川町の製網業の旧家が大正後期に建てた木造2階建の漁網工場。桁行28mで窓を多く取り、内部に柱が少ない。2016年に登録有形文化財。現在はレストラン潮香で、内部は予約客のみ。
旧戸田家住宅隠居棟は和歌山県広川町の製網業の旧家に昭和前期に建てられた36㎡の離れ。保太郎の弟が暮らしたと伝わる。起り屋根の入母屋造で、銅板葺の庇を扇垂木で受ける。2016年に登録有形文化財。内部は宿泊者のみ。
旧戸田家住宅大座敷棟は和歌山県広川町の製網業の旧家が昭和前期に建てた客座敷。10畳2室と4畳を檜の良材で整え、庭側の庇の軒先を銅板葺にする。2016年に登録有形文化財。現在は客室で、内部は宿泊者のみ。
旧戸田家住宅主屋は和歌山県広川町広の製網業の旧家が大正後期に建てた木造2階建の町家。南に土間、北に4室を並べ、2階出格子窓の下を漆喰で持ち出す。2016年に登録有形文化財。1階は貸し出しの地域交流スペース。
旧戸田家住宅西蔵は和歌山県広川町の製網業の旧家に昭和前期に建てられた土蔵造2階建の蔵。5.9m四方の正方形平面で本瓦葺、主屋側を海鼠壁、通り側を竪板張とする。2016年に登録有形文化財。内部は宿泊用の客室。
旧戸田家住宅東蔵は和歌山県広川町の製網業の旧家に昭和前期に建てられた土蔵造2階建の家財蔵。西蔵と並び、北面は四半張、東面は芋張と海鼠壁の張り方を変える。2016年に登録有形文化財。内部は宿泊用の客室。
和歌山市小野町の旧西本組本社ビルは、慶応年間創業の建設会社が昭和2年に建てた鉄筋コンクリート造3階建。建築面積82平方メートルの小さな躯体にイオニア式柱とペディメントを構え、和歌山大空襲を免れた県都屈指の近代建築である。
旧橋本本陣池永家住宅主屋は、和歌山県橋本市の旧大和街道に面した享保16年以前の建築とされる木造2階建ての町家で、平成10年に登録有形文化財となった。建立年代の分かる町家として県下最古である。
旧橋本本陣池永家住宅土蔵は、和歌山県橋本市の旧大和街道に面して建つ江戸時代後期の木造2階建ての土蔵で、平成10年に登録有形文化財となった。街路に面した白壁が目を引き、主屋や表門とともに表構えをつくる。
旧橋本本陣池永家住宅離座敷は、和歌山県橋本市の本陣の敷地の奥、紀ノ川に面して建つ享和3年頃の木造平屋建ての座敷で、平成10年に登録有形文化財となった。紀州藩主が実際に宿泊した建物である。
敷地の南面、浴室棟の西に建つ鉄筋コンクリート造の門。両側の門柱を欠円アーチで繋ぎ、戸口の上にキーストーンを象る。簡略化された洋風意匠をまとい、給水塔や浴室棟と同じ近代の趣を敷地南部の境界に静かに添えている。
がんこ六三園の正門にあたる長屋門である。大正14年の建築で、北二間を部屋、南三間を通路とし、入母屋造の本瓦葺の屋根を架ける。手前の長いアプローチには、難波橋と同じものと伝わるライオンの石像が置かれている。